平塚・大磯・二宮・中井
公開日:2023.09.28
歴史ばなしの舞台を行く【8】
旧相模川橋脚(茅ヶ崎市)
いつも「ひらつか歴史ばなし」をお読みいただきありがとうございます。平塚にゆかりのある人物のエピソードや平塚で起こった出来事などを物語形式で掲載してきましたが、その物語の実際の舞台も紹介したいと思います。
今年は、関東大震災から一〇〇年を数えます。そこで今回は、関連の史跡を一つ紹介しましょう。
大正十二(一九二三)年九月一日、現在の相模川から東に一・五キロほど行った水田(現茅ヶ崎市下町屋)から、大地震による液状化現象によって、中世前半の橋脚(きょうきゃく)が出現しました。
歴史ばなしの「馬入の名のおこり」で稲毛三郎重成(いなげさぶろうしげなり)が妻の供養(くよう)のためにかけた橋の跡だと考えられます。
相模川は、富士山の伏流水を水源とし山梨県から神奈川県に入り、県の中央を貫ぬく形で南下し相模湾に注ぎこみます。明治時代の地図を見ると、河口は広く、砂州(さす)が入り組んでいる様子がわかります。河口付近は時代によってかなり流路が変ったのでしょう。
稲毛重成は、鎌倉時代の武将で、妻は昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公である北条義時(ほうじょうよしとき)の妹です。建久六(一一九五)年六月、重成は、源(みなもとの)頼朝(よりとも)の上洛に随行しますが、その帰りの道中で妻の危篤(きとく)を知ると、頼朝から駿馬(しゅんめ)をもらい、急ぎ妻のもとへもどります。看病の甲斐もなく、翌月に妻はなくなりました。
建久九(一一九八)年、 重成は亡き妻の供養のために相模川に橋をかけ、落成供養(らくせいくよう)を行いました。このとき渡り初めをしようとした頼朝の馬が暴れ、川へ入ってしまったといい、このため、この辺りを馬入川(ばにゅうがわ)と呼ぶようになったと伝えられています。
この帰り道、頼朝は落馬し、そのあと体調を崩して間もなく亡くなってしまいました。落馬が直接の原因でなく、病気で亡くなったともいわれますが、頼朝の死は謎に満ちています。暗殺されたという説、平家や源義経の怨霊に取り憑かれて死んだとする説まであります。
頼朝の死因が定かでないのは、鎌倉幕府の記録である『吾妻鏡(あづまかがみ)』に、頼朝の死の前後の記事が欠けているからなのです。橋供養と頼朝の死については、のちの建歴二(一二一二)年、この橋の修繕に関する記事があり、そこに記されています。落成供養後に頼朝が亡くなっており、縁起の良くない橋なので、わざわざ直さなくてもよいのではないかという意見に対し、三代鎌倉殿の源実朝(みなもとのさねとも)は、相模川を渡るのに必要だからと言って修繕を命じているのです。
さて、関東大震災で現れた橋脚については、その後、学術的な調査がなされ、一〇本あることが確認されています。大正一五年に国指定史跡になり、今はその後整備された池で保存されています。
文/平塚てづくり紙芝居の会 たもん丸
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