横浜米軍機墜落の記憶(上) 「和枝よ、安らかに眠れ」
「人を恨んではいけないが、やはり私は米軍とパイロットを恨む」―。米軍機の墜落が原因で、2人の愛する息子を亡くした母親の日記にはこう記されている。
「遅い昼ごはんを食べ終わった後の休憩時間でした」。こう話すのは生花店「青葉台ガーデン」の取締役・土志田隆さん(65)。平穏な日常が突然、一転する。1977年9月27日午後1時20分頃、旧緑区荏田町(現青葉区荏田北)で厚木基地を離陸した米軍機が、エンジン火災を起こし墜落。9人の死傷者を出した。現場付近には、隆さんの2歳年下の妹、和枝さん(当時26歳)が住んでいた。事故直後、隆さんは青葉台から車を飛ばして荏田へ。「(和枝の)家は焼け落ちていて、米軍機のエンジンが放り出されていた。とにかく悲惨だった」。頭の整理がつかず当日の記憶は断片的だ。その後、現場で「やけどのひどい人を病院に搬送した」と情報が入る。
◇◇◇
藤が丘病院の集中治療室でやっと和枝さんに会えた。第一声は「お兄ちゃん助けて」。包帯ぐるぐる巻きの妹、露出部分は顔だけ。「感覚のまひで痛い、苦しいという言葉は聞かなかった」
事故発生から約12時間後、和枝さんの長男・裕一郎君(当時3歳)が亡くなる。間もなく、次男・康弘君(当時1歳)も全身やけどで命を絶たれた。「本当に短い人生だったけど、黒焦げの皮膚、当時の容態を考えると、もう手遅れだった」と肩を落とす。「和枝だけでもなんとか助けてあげたい」。親族はその一心だった。そこで「本人のため、回復してから子どもの死を知らせよう」と決意した。
全身の8割程がやけど状態の和枝さん。事故当初は「豚の皮」を張り付けて体液の流出を避けていた。事故から3カ月、年が明け、1月には回復の兆しが。「普通に話せはしたけど、それは壮絶な闘いだった」。ほぼ全身やけどの体を消毒するために硝酸銀の薬浴治療が続く日々。「ちょっとした擦り傷の消毒でもしみて痛いでしょ、和枝は全身だから」。想像を絶する痛み。その後、皮膚の移植手術やリハビリなどを続けるが、事故から4年4カ月後に心因性の呼吸困難でこの世を去った。「あれから楽な日は一日もなかった。これでやっと、和枝が安らかに眠れる」
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事故から2回目の新年を迎えた1月29日に、愛する子どもの死を知った和枝さん。翌日の日記には「もうどんなに叫んでも子どもたちは私のところへは戻ってこない。いつか私の胸の中へ抱いてやりたいと思っていたのに、その夢も破られてしまった」と悲痛な叫びが。「私はこの日記、全部読めない。しっかりと見られない、和枝や裕一郎、康弘を思い出すから…」。隆さんは声を絞り出した。
事故から37年、平穏な生活を取り戻したが、今もなお米軍機は空を飛ぶ。
―続く
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