父が貿易の仕事をしており、6歳の時、日本の勢力下だった中国の漢口へ移り住んだ吉田さん。10歳頃までは、漢口周辺は空襲などもなく、穏やかな日々だったという。
だが、1943年頃米国と中国の連合軍による空襲が激しさを増し、多くの犠牲者が出始めた。
吉田さんは「通学路には、爆弾が落ち、大きな穴が開いていた。その周りには、多くの死体が転がっていた。腕がもげていたり、首がなかったり。本当に地獄のような光景。今でも脳裏に鮮明に焼き付いて忘れられない」と下を向いた。
悲惨な光景だけではない。死体の匂いも今でも覚えているという。「匂いを思い出すと、今でも食事が喉を通らなくなるよ」と眉をひそめた。
姉の死
戦争は激化。多くの傷病兵が病院へと運ばれていた。そのようななかで、「輸血奉仕隊」の名のもとに学校、地域団体から献血者が集められていた。健康そのものだった吉田さんの姉もそのひとりだった。
しかし、献血量が多く17歳という若さで突然この世を去ることになってしまう。父は悲惨な終末に狂乱。日本刀を振りかざし、自室のあらゆる物を打ち切るほど狂ったという。「病院などを訴えることはできなかった。戦争で負けるかもしれない。訴えるなど、到底できる状況ではない。家族にとって、悲しすぎる戦争体験だ」と述べた。
父の経営する会社では、1000人以上の中国人を雇用していた。日頃から中国人と遊ぶなど良好な関係を築いていたという。吉田さんは「国同士は戦争していたが、現地では一人ひとりがつながっていた。お世話になった中国人も多い」と振り返った。そんな貴重な経験をしてきた吉田さん。「民族や宗教、思想、”違い”は必ずある。それを理解し合う姿勢を持つこと。それが平和を築く」。そう力を込めて最後に語った。
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