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緑区 社会

公開日:2025.08.21

元競輪選手渡邉辰夫さん
生きていく 「希望を持って」
2度目の生体腎移植へ

  • かつての自身の写真を持つ渡邉さん

  • 現役の競輪選手だった当時の渡邉さん(提供写真)

  • 渡邉さん(左)と父の義博さん(提供写真)

 「父親から移植してもらった腎臓の寿命が来て…」。そう綴られたメッセージが8月3日、タウンニュース緑区編集室に届いた。送り主は北八朔町在住の元競輪選手・渡邉辰夫さん(60)。妻がドナーとなり、9月に自身2度目となる生体腎移植手術を受けるという。「どんな病気になっても諦めず、希望を持って生きてほしい」。8月15日、自宅を訪ねた記者を笑顔で迎えた渡邉さんが、生きることに懸ける思いを語ってくれた。

 腰の上あたりに左右一つずつある腎臓。渡邉さんの体内にはいま、この臓器が「3つ」ある。一つは20数年前に父・義博さんから移植されたものだ。2023年に義博さんが89歳で他界した後も、その腎臓は息子の命を支え続けている。移植後は一層「父に孝行することを優先した。全力で接してきた」。感謝の思いも生きる力になった。

夢に駆ける

 逗子市で生を受けた渡邉さん。川崎市で暮らしていた中学2年の時、友人に誘われ、初日の出を見ようと自転車で鎌倉市内の海岸へ。「自力でたどり着いた喜びと初日の出のあまりの美しさに、感動が大きかった」

 自転車に魅了され、いつしか競輪の世界に憧れを抱くようになった渡邉さん。選手になるための学校を3度受験し、念願叶って19歳で入学した。厳しいトレーニングなどを経て1985年、20歳でデビュー戦へ。わずか3日目にして初勝利を収めた上、翌年には初優勝。02年の引退までに通算12回優勝の栄冠に輝いた。

 引退の背景にあったのは腎臓の病だった。30歳前後の頃には「走るのがきつく、酸欠状態のようになってきた」という。

 自宅での人工透析が始まると暮らしが一変。制限だらけの生活が4年続く中、自死を考えるほど苦しんだ。見かねた父がドナーとなり、02年に決行された親子間での生体腎移植が、渡邉さんに生きる希望をもたらした。

妻の決心

 ただ「父が亡くなってから、移植された腎臓はどんどん悪くなっていった」と渡邉さん。妻の佐智子さん(58)も「もう一度移植が必要だなと思っていた」と話す。

 10代で渡邉さんと出会った佐智子さんは結婚後、「腎臓のことを勉強しながら夫を支えていきたい」と、39歳で看護学校に入学。44歳で正看護師の試験に合格し、現在は都内のクリニックで勤務している。

 「ドナーになることを以前から決心していました」と力強く語る佐智子さん。「腎臓を一つあげることで元気になってくれるなら、不安は全く無い。即断でした」

笑顔を届ける存在に

 選手引退後、渡邉さんは福祉施設でヘルパーとして多くの高齢者などを支えた。緑区や青葉区の学校などでは自転車安全教室の講師も務め、タウンニュースが度々発信。「何か生きる糧を見付け、夢を大切にしてほしい。多くの人の力に、少しでもなれたら」

 9月24日、渡邉さんは、相模原市内にある病院で生体腎移植手術に臨む。「葛藤もあるが、2回目のチャンスをもらえるのは本当に感謝です」。取材中、大勢の人を勇気付けてきた満面の笑みを、何度も何度も見せてくれた。

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