連載 地図・絵図で見る瀬谷の生い立ち 第12回 「迅速測図」と「偵察録」にみる明治初期の瀬谷その4 明治初期、境川沿岸と谷戸の田圃と「義民建功之碑」 文/横浜・瀬谷地図くらぶ 田中常義
“境川沿いの土地は中等の中で少しの良田(図の黄色)があり、「相模野台地面」は粗赤土の中等の下の畑地に桑が最も適し、茶がそれに次ぐ。穀物は小麦が第一で大麦も適”(「偵察録」)であり、“田78町に対し畑は583町”(「皇国地誌」)、川沿い以外は殆ど桑畑だった。
明治初期の地租改正時、瀬谷地区は“大蔵省から畑に3倍の増税”を強いられたため、瀬谷・二ツ橋・和泉・汲沢・深谷の5か村代表である平本平右衛門、露木要之助らが裁判所へ、その不当を訴えた。
明治25年3月、両人の功績を讃え「義民川口平本建功之碑(=写真)」が旧位置から移設され徳善寺境内に建っている。(古川甫『瀬谷郷土史資料編』・『横浜瀬谷の歴史』)
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