中区、西区、南区、神奈川区を中心に、横浜市の34%を焼け野原にした横浜大空襲からまもなく67年―。黄金町駅付近で大空襲に遭遇し、九死に一生を得た港南区大久保在住の齊藤誠一さん(80歳)に話を聞いた。
1945年5月29日午前8時30分頃―。まさに日本晴れといった真っ青な空が広がる横浜の街に、警戒警報のサイレンが鳴り響く。
ちょうどその頃、中庭で全体朝礼の最中だった関東学院中等部(南区三春台)では、「帰宅できる生徒は帰ってよし」との指示が下される。警戒警報は珍しくないが、帰宅指示が出るのは異例。多くの生徒は学校に残ったが、入学したばかりだった齊藤さんは「学校で空襲に遭うより家に帰りたい」と、友人2人と最寄の黄金町駅を目指して走った。
その友人とは途中で別れ、5分程で駅に到着。人影もまばらなホームで電車を待っている時、齊藤さんはにわかに胸騒ぎを覚える。「理由はない。ただ、やっぱり戻ろうと思った」。改札口付近に立つ短剣を下げた海軍の将校や鉄兜を背中に掛けた陸軍の兵隊を横目に、再び学校へ走り出した。
それからまもなく、「西の空一面を覆いつくす黒い塊」を目にする。それは、横浜に向けてマリアナ基地を未明に飛び立ったアメリカ第21爆撃機集団に所属するB29の編隊で、その数は517機にもおよんだ。驚く間もなく、次の瞬間には「ダダダダーバンバン」と大地を揺さぶる爆発音。「振り返ると、さっきまでいた黄金町駅はもちろん、街全体から黒に近い灰色の煙があがっていた。狂った龍が暴れまわっているようだった」。一瞬にして「地獄」と化した街を背に、高台に建つ校舎への急坂を無我夢中で駆け上ったが、後から追いかけるように迫る熱風は見る間に周辺の木々の葉を焼けつくしていった。
その後たどり着いた学校で、先生の指示により鉄筋コンクリート造の校舎の地下にあった生物室に避難。人ごみで息苦しく、外の様子も分からない真っ暗な空間で、午後2時頃まで不安な時を過ごした。
一段落して外に出ると木造の校舎や礼拝堂は焼け落ち、生木も立ったまま燃えていた。眼下には火の海が広がり、父・通有(みちあり)さんが勤めていた小学校も煙の中。「父は死んだと思った」。実はその頃、生き延びた通有さんも関東学院のある丘を見上げ、息子の死を覚悟していたという。
齊藤さんはそれから、まだ燃えている焼死体も多くある道を歩き、現在の南区大岡にある自宅を目指した。約3時間かけて帰った家では母・チカさんが庭で摘んだ籠いっぱいの苺を抱えて出迎え、無事を喜んでくれた。「あの味は忘れられない。良い想い出」。
その後しばらく、黄金町駅そばにあった地蔵尊には、あの時出会った将校の短剣や兵隊の鉄兜が遺品として奉られていた。「たった1度の命。戦争は絶対にいけない」。齊藤さんは命を助けられた感謝の意を込め、毎年5月29日にはその地蔵尊が納められている南区の寺院に参拝を続けている。
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