120年前にパリで活躍天才庭師 畑和助 文・写真 鶴見歴史の会 齋藤 美枝
平成15(2003)年11月10日の朝日新聞に「113年前の博覧会」「パリへ渡った『天才庭師』ハタ・ワスケ(畑和助?)」「腕前、貴族ら絶賛」「旅券記録に居住地『鶴見村1010番地』どの辺?」「慶大教授が追跡」という記事が紹介された。
慶應大学の鈴木順次教授(フランス語フランス文学)の調査によると、ハタ氏はフランス革命百周年にあたる1889(明治22)年に開催されたパリ万国博覧会に明治政府が出品した日本庭園を造った。博覧会終了後もパリに残り、文人貴族ロベール・ド・モンテスキウ伯爵家の住み込み庭師となった。大富豪ロスチャイルド家の和風庭園も手掛けるなど、その腕は高く評価され、伯爵の回想録には「ハタ氏は天才的庭師」と記され、プルーストの『失われた時を求めて』に登場する日本人庭師も畑和助と思われる。外交史料館にある当時の旅券の発給記録から畑和助は「鶴見村千十番地」「畑仲次郎二男」であることを突き止めたが、該当する場所は見当たらない。百年前の地名と現在の地名が異なるため、調査は難航。情報を集めている、という内容の記事だった。
鈴木教授に協力して鶴見区内の畑姓の家を尋ね歩いたが、該当する家は一軒もない。古い地図にも千十番を見つけることはできず、諦めかけていた時、それより数年前に鶴見歴史の会が解読し活字化した、黒川荘三著の『千草』に「鶴見村千十番地の畑仲次郎がキャベツ菜試作」と記されていたことを思い出した。
鶴見村下町の畑金治郎が文政年間(1813〜30)に天王河岸に分家して植木職となり、その妻が潮田と鶴見を往来する渡し船を始めた。金次郎の養子・仲次郎は農業に精を出し、妻・ユキ子が渡船をした。仲次郎の長男・金蔵も潮田村の徳兵衛と一日交替で渡船をしていた。
また、『佐久間権蔵日記』には、畑金蔵家前の船着き場が「川金河岸」とも呼ばれていたことや、初代潮見橋架橋の際に川金他数軒が引っ越しを余儀なくされたことが記されていた。鶴見村千十番地は、明治44年10月に完成した潮見橋の建設用地となって消滅した。
和助の兄・金蔵は明治25年に鶴見川河口に出来た浅野侯爵家の広大な別荘の庭園を管理し、侯爵たちの舟遊びの船頭を勤めていたという。
寺谷の天王院の墓地の畑家の墓標には植木鋏が刻されているが、パリで活躍した天才庭師・畑和助は、一度も帰国することなくパリでその生涯を閉じたという。
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