乃木大将筆「日露戦役記念碑」 文・写真 鶴見歴史の会 齋藤 美枝
花月園競輪場跡地の一角に、台石まで含めると高さ三メートル以上もある大きな石碑が建っている。碑の正面には「明治三十七八年戦役」「紀念碑」「希典書」、裏面には「明治三十九年十月」「鶴見・東寺尾有志者建造」と刻まれている。
明治三十九年当時、現在の鶴見区域は、生見尾村(生麦・鶴見・東寺尾)、町田村(市場・菅沢・矢向・江ヶ崎)、旭村(獅子ヶ谷・駒岡・末吉・馬場・北寺尾)に分かれていた。この碑に記されているのは、生見尾村の中の鶴見と東寺尾から出征した人たちである。欠損や土中に埋もれた部分もあり判読不明もあるが、台石の銘板と碑前左右の石碑には、「歩兵」五十二、「砲兵輸卒」四、「輜重輸卒」二十三、「騎兵」一、「砲兵」二十、合計百人の名前が刻まれている。
日露戦争後に戦死者を慰霊・顕彰する「忠魂碑」の建立が全国的に広がったというが、「紀念碑」に記されているのは、出征した人たちの名前で、その後鶴見のまちの発展にさまざまに活躍した人たちの名前も読み取れる。
この碑は、日露戦争の勝利に貢献した人々への感謝と、出征した人々の誇りを後世に伝えるために建てられた紀念碑である。碑文を書いた「希典」は、難攻不落の旅順を落とした日露戦争の英雄「乃木希典」。乃木大将は、明治天皇の御大葬後、夫人とともに殉死した。
乃木大将に揮毫を依頼したいきさつが、鶴見の名望家佐久間権蔵の日記に朱字特筆されている。
大正元年九月十八日「午後三時乃木将軍の葬儀につき、余は午前十一時頃上京し、乃木邸入口の受付に余の名刺を出し(当村議員代表の名刺)、休憩処にて神奈川の吉田宮司に会い定刻出棺青山墓地入口迄葬送せし処、数万人にて参拝も覚束なければ、吉田氏と申し合し后日墓参のこととして四時頃同処を辞して帰宅す。乃木将軍には余三十九年八月中、当地出征軍人の記念碑染筆を乞いしに将軍快諾、速時に快筆を揮われしなり。右の芳情に報する微意と誠忠無類の将軍を欽慕して葬送せしなり。将軍并に令夫人の棺に対し余は電気に打たれし如き感にて涙禁じがたし」
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