「土木事業者・吉田寅松」【6】 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
債務は県が肩代わり埋立会社解散
埋立会社に支払える能力がないと事情を察したウオルスホールが、これは民間資本でなすべき事業ではなく、国家的な事業であると二十五条にわたる具申陳情書を神奈川県に提出。これを受けて、寅松たちの埋立会社は、小野光景らの町役人とともに、埋立地は官有地とすることを条件に、債務の肩代わりを県に陳情した。
時の県令、中島信之が大蔵卿と内務郷に請願書を提出し、債務は神奈川県の拠出金で返済した。
苦労して埋立てた土地の大半は官有地となり、地代収入をあてにしていた地主たちの多くが破産し、負債を抱えた吉田新田埋立会社は解散した。
土木工事や商いに精通していた寅松は、工事にかかる木材を一手に引き受けていたので若干の利益を上げていた。
役人として残務整理
実直な仕事ぶりと人柄から同盟者たちに推挙された寅松は、埋立会社解散後も官有地管理の役人となり、引き続き残務その他一切の工事や事務処理を任された。
すべての負債も償還し、吉田両本家の負債も整理し、埋立事業のすべてが円満に完了した明治十二年、寅松は役人を辞して吉田組として土木請負業を再開した。
一つ目沼地の埋立事業が一段落した明治八年、寅松は、自費で故郷の西寺尾の道路を改修し、中島県令より銀杯を下賜された。
『立身叢談信用公録』には、「明治八年、神奈川県橘樹郡西寺尾村道路、自費を以て改築のところ、県令よりその為の賞として銀杯一個下賜」と記されている。
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