「土木事業者・吉田寅松」【7】 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
鉄道局長が育成した土木請負業者
横浜一つ目埋立事業で成功した吉田寅松は、鉄道の発展に伴い需要の増した鉄路敷設の土木事業請負事業者として成長していった。
明治五年に新橋・横浜間に鉄道が開業して以来、鉄道は人や物を運ぶ便利な交通機関として、日本全国に張り巡らされていくようになった。
鉄道の発展は、継続的で大量の土木工事を生み出し、鉄路敷設や橋梁建設をする土木技術者や従事者の需要が急速に高まった。
鉄道開業当初の鉄道工事は、外国人技術者の指導のもと官営事業として進められ、明治二十一年まで鉄道関係のお雇い外国人は七百五十人を超えていた。
日本人による鉄道建設を目指していた鉄道局長井上勝は、土木請負業者の育成にも力を注いだ。港湾埋立や河川改修などの土木事業経験者や鳶職の親方たちに各工区の責任者として、作業員の手配や管理などを一任し、請負業者としての技術や管理能力を向上させた。井上局長の保護を受けながら、専門的な知識や技術を習得し、資本も蓄えた鹿島岩蔵、吉田寅松、藤田善三郎、杉井定吉などが有力な土木建設業者に成長し、全国に展開していく鉄道工事で力を発揮するようになった。鉄道局の技手で、六郷川や鶴見川などの架橋工事でお雇い外国人から直接橋梁建設の技術を学び、「鉄道小川」とも称された小川勝五郎も独立して土木請負業に参入した。
工期誤算で下請人に
明治十二年、吉田組は北陸本線の長浜・敦賀間の請負事業者に選ばれた。長浜・敦賀間の工事は、外国人の手を離れた二回目の工事で、井上勝鉄道局長自らが面接をして適格と認めた土木業者を選定し、随意契約をして請負わせた。
長浜・敦賀間の工事契約で初めて発注仕様書「米原・敦賀間鉄道建築土工仕様書並請負人心得書」が発行され、官の直営工事ではあるが、工区ごとに請負業者が全面的に責任をもつ請負施工であった。
井上局長自身が長年かけて育成してきた子飼いの業者、藤田傳三郎、吉田寅松、鹿島岩蔵、小川勝五郎らが特命された。強い信頼関係を前提としての特命工事で、寅松は工期を見誤ってしまった。激怒した井上局長は、吉田組の請負工事を停止させ、寅松を小川勝五郎の下請人とさせた。
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