「土木事業者・吉田寅松」【13】 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
常倫寺で犠牲者追悼幻燈会
大施餓鬼会は二十八日に常倫寺で行い、法要の後に濃尾震災の様子を伝える幻燈会を催すことになった。震災者追悼供養の会を開くための準備で宏道和尚の東奔西走の日が続いた。
関係機関に幻燈機についての問い合わせをし、旭村の駐在所に幻燈会を開くことの届けを出し、常倫寺に行って施餓鬼の供養塔をこしらえ、幻燈会の案内札を書いて張り出し、当日の法要で読み上げる追弔文も書いた。
十一月二十八日は早朝に常倫寺へ行き、午前中に岐阜・愛知両県の震災犠牲者追悼の大施餓鬼会を行い、午後に開いた大震災を伝える幻燈会には旭村の人たちが大勢集まった。立錐の余地もない盛況であったが、演説中の聴衆の態度にいささか問題があったようだ。日記は経年の劣化で肝心の部分は欠損し詳細は不明だが、「演説中聴衆の態度□□□□□にはなはだ困苦せり、十一時に散会、永昌寺へ一泊す」とある。この日集まった義援金は、十二月八日に神奈川から大日本教育会に通常為替で送金した。
その他、曹洞宗の宗務局からも義援金の通達があり、青木橋にあった陽光院や小机の雲松院など曹洞宗寺院と相談し連絡しあって、義援金募集の講演会も行っている。
坊主店に二度にわたって張り出した義援金募集の案内が功を奏してか、義援金も集まり、大震災を伝える幻燈会にも大勢の人たちが集まった。
吉田寅松の日光線工事を書きかけていたが、建功寺住職(お坊さん)が、堀江商店を「坊主の店」「坊主店(ぼうずみせ)」と呼んでいた「坊主店」が気になって仕方がない。さらに寄り道を続けることにして、宏道和尚の山内日記『驢事馬事』を読み直してみた。
よろず百貨の坊主店
明治二十四年十月二十八日に起きた濃尾震災の義援金を募集するにあたって、宏道和尚が十一月七日と十日二回にわたって義援金募集を呼びかける張り紙を掲示した坊主店。この坊主店では、米、麦、味噌、醤油、砂糖、素麺、油、酒、塩、豆腐、油揚げ、漬物、キュウリ、うどん粉、コンニャク、海苔、鱈、ビール、赤玉ポートワイン、煙草、ミカン、桃、葡萄、リュウマチの薬、和紙、半紙、麹の蓋、箒、マッチ、ろうそく、うちわ、土瓶、石けん、洗面器、手洗い器、バケツ、駒下駄、熊手、木炭、砥石、釘、井戸釣瓶、燈籠、洋灯、コンロ、カナリヤのための水浴び器などなど、食料品や薬、諸々の日用雑貨、大工道具、農業用具などを扱っていた。宏道和尚は、切手や葉書も坊主店から買って、仏教書などの出版社から依頼された原稿も坊主の店から送っていた。
坊主店は、小荷物なども扱う郵便取扱所でもあった。宏道和尚は、さらに冬物や単衣の仕立てや直しも頼んでいた。よろず百貨を商う坊主店は、近郷近在の人たちに利用されていたようだ
大正二年四月十一日の『驢事馬事』に「西寺尾旧坊主店の主人堀江安太郎氏、東神奈川駅にて変死せられし……」、大正十五年一月十九日に「赤門にては助役その他同道にて坊主店前の踏切をガードにするよう横浜鉄道会社へ交渉のため行きたりと」とあることから、坊主店は明治四十一年に開通した横浜線の近くにあったことがわかる。さらに、昭和三年二月十日の日記には、「西寺尾坊主店(堀江商店)へ今晩嫁が来るとの事」と書かれていることから、坊主店の正式名称は、「堀江商店」だったということがわかった。
横浜線は明治四十一年に、長野・山梨両県や八王子で生産された生糸を横浜に輸送するために「横浜鉄道」が私鉄として神奈川・八王子間を開業した。
吉田寅松の吉田組は、横浜線の工事にはかかわっていない。
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