「土木事業者・吉田寅松」㉘ 鶴見の歴史よもやま話 鶴見出身・東洋のレセップス!? 文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略
寅松が造成した土地に浅野の薪炭倉庫
浅野総一郎が横浜で薪炭商から石炭商に転じ商売も順調にすすんでいた明治八年二月の大風の日、火災に遭い店も財産も焼失し再起を図っていたとき、石川町の吉田新田の埋立地が完成し、借地人を公募したが、借り手がなかったため三年間無償で借りられることになった。
浅野総一郎は、花園橋の左側、川に面した後に寿町と名付けられた三百坪の土地を借りて薪炭倉庫を建てた。
薪炭商浅野総一郎は、ガス局から排出されるコークスをただ同然で買い入れ、官営深川セメント工場の燃料として売却し巨利を得て、渋沢栄一の王子製紙にも納入した。しかしセメント工場ほど効率がよくなかったため、製紙会社の倉庫にはコークスが山積みになっていた。
総一郎は、コークスと扱っていた常磐炭の交換を持ち掛け、取引は成功。石炭を納入するとき、人足と一緒に真っ黒になって荷下ろしをする総一郎の姿が渋沢栄一の目にもとまり、深川セメントの払い下げにつながっていった。
浅野総一郎が薪炭倉庫を建てた土地は、吉田寅松が一つ目沼地を埋立てて造成した土地だった。膨大な埋立資金の調達ができず官費で埋立てたため、埋立地は官有地となっていたが、実直な仕事ぶりと人柄から埋立完成後も寅松は官有地管理の役人となり事務処理など一切の残務を任されていた。
後年、吉田寅松の三男で寅松の生家、北寺尾の鶴田家を継いだ鶴田勝三は浅野総一郎の三女コウと結婚するが、浅野総一郎と吉田寅松は、それぞれの事業の創業期に横浜で出会っていた。
吉田寅松は、一つ目沼地の埋立工事だけでなく、高島嘉右衛門の下請け業者として明治五年に開業した新橋・横浜間の鉄道工事にもかかわっていた。鉄道局長官井上勝は、日本人による鉄道建設を目指し、土木請負業者の育成に力を注いでいた。
小川勝五郎、鹿島清蔵らとともに井上勝によって土木請事業者として育てられた吉田寅松は、明治十二年に高島嘉右衛門の斡旋で鉄道土木請負業として初めて、長浜・敦賀間の工事を請け負った。しかし、俊工期日を誤り、井上局長の逆鱗にふれ、六郷川鉄橋工事で実力を発揮した小川勝五郎の下請人に落とされ、家や土地、横浜埋立地使用権利、成果の鶴田家の全財産を投入してなんとか工事を落成させることができた。
その後は実直な仕事ぶりで鉄道局長官の信頼も取り戻し、指名業者として、関ケ原・名古屋・竹豊間及び豊橋間、軽井沢・直江津間、横川・軽井沢間の第二工区などの鉄道敷設工事を請け負い、土木業者として盤石の地位を築いていった。
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