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鶴見区 コラム

公開日:2025.08.21

「土木事業者・吉田寅松」63 鶴見の歴史よもやま話
鶴見出身・東洋のレセップス!?
文 鶴見歴史の会 齋藤美枝 ※文中敬称略

富士山で自転車競走

 明治三十三年、吉田寅松の三男、鶴田勝三は横浜のアンドリース・ジョージ商館の、曲乗り選手ウィリアムス・ボーンと二人で、富士山で自転車競走をこころみた。

 御殿場で強力を雇い、頂上を目指したが、あいにくの荒天つづきで、四日目にようやく頂上にたどりついた。頂上で一、二時間曲乗りをしたあと、七合目までは自転車を担いで下り、自転車競走は、砂走からはじまった。

 傾斜四十五度、乾いた滑りやすい火山灰で加速され、猛スピードで滑り落ちる。勝三のデートン、ボーンのクリーブランド、二人の自転車にはブレーキはなかった。

 鶴田は、荷物をくくり付けた二本の長い棒を自転車に取り付け、ブレーキ代わりにして七十キロのモースピードで走り降りた。十二、三キロ地帯でロープが切れて、ブレーキ代わりの荷物は、雲間に吹き飛んだ。スピードが加速する。勝三は、サドルから尻を後ろにずらし、尻でタイヤを押さえて、ブレーキ代わりにした。ズボンも下着も擦り切れてしまい、肌が見えてしまったところで、辛うじて止めることができた。そこから先はなだらかになり、時速四十キロで走り、七合目から御殿場まで、わずか五十分で完走した。

 外国人と伍して走る鶴田勝三は、日本競争史に、最初に現れた天才で、関西の角商会のランクルに乗り活躍していた、石井大三郎というスピード選手とともに、「東の鶴田、西の石井」と並び称された。

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 生麦の名主関口家当主が代々書き継いだ『関口日記』には、明治三十三年六月二十八日に、「陸井商店より三人、自転車で遊びに来て、一輌を貸してくれた、鏡治、英次、俊の三人も十分に練習したため、三人とも乗れるようになった」とある。翌二十九日に、鏡治が自転車で江戸屋へ行き、英次が神奈川へ自転車を返しに行った。十月八日には、関口家でも自転車を一台購入している。

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 明治三十四年当時、自転車は一部資産家の娯楽品だった。アメリカ製輸入車が幅を利かせていて、業者は宣伝のためにお抱え選手をレースに走らせていた。

 鶴田勝三は、双輪倶楽部所属の自転車競走の選手としてレースに参加し、常に圧倒的な勝利をおさめ、「不世出の自転車ライダー」「鶴田の前に鶴田なく、鶴田の後ろに鶴田なし」と称され、自転車史にその名を刻んだスター選手だった。

双輪商会大阪支店開業

 明治三十四年十二月一日の朝日新聞に、双輪商会が「(祝)開店五週年自転車大割引」の広告を出している。

 「デートン紳士号百五十円を百三十五円、ホワイトフライヤー百二十五円を百十五円、へンリ百円を八十円など、各種自転車を今月中に限り、割引きするので至急ご注文を、タイヤ、ハンドル、サドルは、お好み次第。木挽町四丁目 双輪商會」とある。

 アメリカ製のホワイトフライヤーやヘンリーなどの売れ行きも好調で、双輪商会は、銀座の日米商会や横浜の石川商会、大阪の角商会などと肩を並べるほどになり、大阪にも支店を開業し、全国に販売網をひろげた。社員をアメリカに派遣して出張所も開設した。

 明治三十六年には、当時、人気のあった力士国見山をデートン号に乗せて走る写真を新聞広告に使い、「三十八貫目の体重を乗せてよく千里を走る 軽快と言わずして何ぞや堅牢と言わずして何ぞや デートン号日本一手販売元 双輪商会・双輪商会大阪支店」と、その堅牢ぶりを宣伝している。

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