1945年5月29日に起きた横浜大空襲から、明日で丸70年が経とうとしている。本紙は、約6800人という市内最大規模の死傷者が出た神奈川区で空襲にあった、萩原正明さん(84)と関戸幸代さん(85)にインタビューを実施。2人は「二度と戦争をしてはいけない」と口を揃えた。
「私たちが最後の世代」
「ちょうど、あの日も今日みたいによく晴れた日だった」――。当時14歳だった萩原正明さん=新町在住=は、勤労動員として新子安の昭和電工で資材運搬などに従事していた。「工場に着くや否や空襲警報が発令されて、帰宅指示が出た」。入江川沿いに軒を連ねる漁師たちの家を横目に、神奈川通6丁目(現在の東神奈川2丁目)の自宅へ急いだ。「母と空を見上げると、暗くなるほどのB29が迫ってきた」と、両腕を広げて表現する。
命からがら神奈川小学校へ避難したが、浜通りにあったコールタールや石炭などの原料集積所に焼夷弾が落ちたことで紅蓮の炎が一帯をなめつくし、まるで地獄絵図だった。幸い家族は全員無事だったが、「防空壕に避難した人は逃げようとする姿のまま蒸し焼きになり、入江川には何人も浮かんでいた」。実家は米屋を営んでいたため、命を落とした近所の子どもたちをかまどで火葬したという。
萩原さんはこれまで、息子たちにも空襲のことはあまり話したことがなかったという。しかし、「当時の記憶があるのは私たちの世代が最後。(母校の)横浜翠嵐高校の青年たちにも、語り継いでいきたいと思う」と深くうなずいた。
「二度と誤らないで」
当時、西区浅間町に家族5人と暮らしていた関戸幸代さん=西寺尾在住=も、市電に乗って新子安の飼料工場へ通っていた。空襲の2カ月ほど前、浦島付近の上空を旋回する米軍機を仲間とともに眺めていた。「今思うと、あれはどこに爆弾を落とすか調べに来ていたのではないかと思う」と振り返る。
空襲時、関戸さんはそのまま工場に避難。しばらくして帰宅指示を受けると、浅間町まで下駄で帰ったという。大口付近では、母を探して泣きじゃくる少女に出会った。「一緒に座って、持っていた弁当をあげて『必ずここで待っていれば会えるよ』と別れた。今は元気でお母さんをしていることでしょう」と、生きていることを信じるように微笑んだ。東神奈川駅はまだ燃えていたが、横浜駅に着くと人気はなく、焼け焦げて膨張した死体だけが残っていたという。
関戸さん一家も全員無事だったが、「その後、3歳の妹は衰弱してこの世を去ってしまった」とうつむいた。
現在は、罪なき子どもたちを救いたいと国連へ定期的に寄付を続ける。語り部として、小学校にも訪問。「声が出る限り伝えようと思う。二度と間違ったことはしてはいけないと」
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