高津物語 連載第八二七回 「赤城神社三社」
高津町に赤城神社が三つあり、今もある。
一つ目の赤城神社は、大山街道溝口神社の前身。
神社の周りは赤城まわり。特に神社裏手一帯を後田と呼んだ。後田と神社の間を古く「大学屋敷」とか「上屋敷」等と呼び、更に神社付近に「牢屋敷」という地名もあった。
溝口神社から溝口方面に進み、高津中央病院方面に左に入ると、十字屋があり、更に直進すると左手に宗隆寺墓所がある。この辺が溝口下屋敷である。
二つ目の赤城神社は、溝口南口発市営バス「蔵敷」行に乗車、宮ノ下で下車し、進行方向右側の山を上ると、稲毛三郎重成が赤城明神第六天魔王社を勧請、合祀居城とした赤城神社に出る。
赤城神社を登りきると、作延城跡石像がある緑ヶ丘霊園に続き、城山、城山下、城山堀、矢倉沢、楼塚、城山通、天主台、大丸等の地名が、三田(理)家所蔵古文書に見えるという。(『川崎の町名』)
三つ目は準西国稲毛三十三所観音霊場二十七番札所天台宗赤城山妙覚寺と号す延命寺である。
延命寺の本尊は「聖観音菩薩ハ御丈一尺三寸許リノ立像ニシテ土人是ヲ鼻取地蔵ト」呼ぶ。(風土記稿)
御詠歌は「いっしんに だいじだいひと ねんずれば みのりのはなは いつも さくのべ」である。
鼻取地蔵は『伝説と童子』(『柳田國男全集』二五)で取上げられ、神仏混淆時代を物語る。その時代溝口宗隆寺は、現在の日蓮宗ではなくて天台宗本立寺といっていたというが、溝口西部に位置した「宗隆寺」は後山に薬師堂、前に根方堀が流れ、寺内に本立坊・忠正坊・法泉坊等々が軒を並べ、矢倉沢往還宗隆寺前を「馬上免」と呼び、下馬して心霊を拝すを慣例とした。
七面山下を、大学屋敷と呼び、村民の帰依で大山街道防火守護として上宿稲荷、中宿には赤城社末社稲荷、根方堀末流の坂戸境の下宿稲荷まで司祭した。久地境には今は無き大神宮(六番組)があり、宗隆寺は広大な土地所有者だった様だ。
大山街道溝口は宗隆寺の門前町で、天台宗時代の各坊伽藍が彷彿される。
|
GO!GO!!フロンターレ3月29日 |
|
|
GO!GO!!フロンターレ3月22日 |
|
3月29日