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公開日:2024.01.26

下布田小教諭新村さん
大震災で感じた優しさ
能登町帰省中、命の危険

  • 児童からもらった手紙と「あのねぼっくす」を持つ新村さん

  • 崩落した能登町内の道路(新村さん提供)

 最大震度7を観測した能登半島地震。下布田小学校教諭の新村歩未さん(23)は故郷の石川県能登町帰省中に被災した。経験したことのない揺れの中「お腹の赤ちゃんを守らないといけない」、その一心だったという。

 新村さんは同町で生まれ育った。高校時代は、七尾市内で下宿生活を送った。兵庫県の大学を卒業後、教諭として昨年4月、下布田小学校に着任した。能登町の実家には両親らが住んでいる。

 12月29日に帰省。1日は親族が集まり、おせちを食べるなど「お正月を楽しんでいた」という。

 午後3時ごろ、夫と2人で車に乗り近くの温泉に出掛けた。4時6分ごろ、震度5強の揺れ。「大きく揺れたが、立っていられないほどではなかった。驚いたが『揺れましたよね』と会話をしていた」と新村さん。怖くなり温泉を出て、服を着ているとき、震度7の地震が発生、悲鳴があがった。新村さんはすぐに洗面台の下にもぐった。妊娠していたため、子どもを守らなくてはいけない、その一心だったという。「怖い気持ちしかなくて。頭は真っ白だった」と振り返る。

 浴室から走って出てきた人もおり「走らないで」という大きな叫び声も聞こえた。

海に近い実家

 頭が濡れた状態で外に出ると、寒さが身に染みた。夫と車に乗ると、携帯電話や車内のテレビが大津波警報の発令を伝えていた。実家は2階から日本海が見える距離。電話もつながらない。「家族が避難していることをただただ、祈っていた」と新村さん。近くの小学校に避難していることが分かったのは、6時ごろ。夫と向かった。道路の亀裂や倒木。見慣れた故郷は、一変していた。

 保育士の母は、初孫が生まれることを楽しみにしていた。そんな母は布団を譲ってくれた。家族は、食事を新村さんに優先してくれた。余震の恐怖と寒さも重なり「なかなか眠れなかった」。6日まで断水が続く小学校の体育館で過ごした。7日に夫と金沢市内へ。ホテルで過ごした。8日に北陸新幹線で川崎市に戻ってきた。真っ先に向かった病院で子どもの無事を知らされた。「心の底から安心しました」

 「心も体も疲れているだろうから」と休むことを勧められた。出勤したのは11日。周りから「本当に、無事でよかった」と言われ、涙した教員もいたという。

児童から心配の声

 社会人となり、初めての担任。新村さんが教室に入った瞬間「先生、大丈夫だったの?」と3年2組の児童は、心配の声を次々にかけた。

 「悩みなど、先生に伝えたいことがあれば、何でも書いて入れてね」。そう児童に伝え、昨年5月に設置した「あのねぼっくす」。牛乳パックなどで手作りした。そこには、新村さんを心配するメッセージが書かれた折り紙が入っていた。また、手紙も手渡された。

 授業では、地震のことや避難所での生活を児童に語った。「津波は大丈夫だったの」「トイレはどうしていたの」「電気や水は」など、多くの質問に一つ一つ答えていった。「児童が自分たちの冬休みの話はほとんどしなくて。先生のことを心配してくれて、たくさんの質問をしてくれた。優しい子どもたちの思いに感動した」と新村さんは授業を振り返った。

 千野隆之校長は川崎市内の自宅で、地震を知った。石川県に帰省していた新村さんのことがすぐに頭に浮かんだという。「児童や教職員も心配していた。無事で本当に良かった」と話した。

「復興を願う」

 甚大な被害の状況が明らかになった能登半島地震。今も懸命な救助活動が行われている。「余震も続いており心配。高齢者も多い地域。これ以上被害が拡大しないこと、故郷の能登が復興に向かうことを切に願っている」。そう新村さんは、今の思いを話した。

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