中原区 社会
公開日:2023.07.28
上小田中在住 朝山秀男さん(82) 話せるのは「体験したことだけ」
今も残る、真っ赤な炎の残像
「戦争には反対だ。ただあの時代、すべてが悪かったなんて言えない。自分が話せるのは体験したことだけ」。1945年4月15日午後10時ごろ、市内を爆弾と焼夷弾が襲った「川崎大空襲」。罹災者10万人、死者約千人、負傷者約1万5千人。当時4歳の幼児だったが、一生忘れられない記憶となって今も残る。
上小田中の自宅が被害を受けた。避難していた防空壕から見ていた祖母が母に向けて口にした言葉が耳から離れない。「家の中に火が入っちゃったよ」。防空壕の隙間から首だけ出して見ると、「まるで真っ赤な火の窯だった。呆然と立ち尽くす母の後ろ姿が黒く映し出されていた」。夫と息子を戦地に送り出し、気丈に家を守り続けていた明治生まれの祖母が肩を落とし、母は涙を流していた。
低空で飛行するB29爆撃機の轟音は腹の底に響いたが、爆弾の落ちた衝撃も音も臭いも記憶にはない。ただ、防空壕から逃げ出し田んぼの中を走っていたときに「ヒューン」と何かが耳元をかすめた音だけは覚えている。後にそれが焼夷弾だったと知った。「水を張った田んぼに落ちたから燃えなかった。直撃してたら、こうして生きてはいなかっただろうね」
母屋は焼けずに残っていたが、敷地内にあった倉庫3棟は全焼した。実は倉庫の中には当時近くにあった電子機器工場が爆撃の標的になるのを恐れて機器類を隠していた。「今思えば情報が漏れていたのではないか。狙われていたとしても驚かないね」
こうした記憶はこれまで自分の心の奥にしまい込んできた。息子や孫たちにも話したことはない。戦争の良し悪しを語る立場にもない。「いつの時代も背景があり、戦争を好んでやる人はいないと信じたいが、現に戦争は起きている」。子どもと孫に恵まれ穏やかな日々を送る今、平和の尊さを感じる。あの苦難の時代を生き、守ってくれた祖母や母への感謝の気持ちを忘れた日はない。
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戦後78年を経て、戦争の記憶が風化しつつある。体験者の記憶を後世に残すとともに平和の意義について考える。
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