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中原区 スポーツ

公開日:2024.01.19

パラアスリート 東山祐汰さん
小原選手は「永遠の師匠」
川崎競輪場で培った絆

  • ユニホームを手にする(右から)東山さんと小原選手

 陸上のパラアスリート・東山祐汰さん(22)=横浜市=は18歳の時、交通事故で左腕の機能を失い、競輪選手を断念した。自暴自棄になったこともあったが、持ち前の前向き精神で転身し、パラリンピック出場を目指す。今でも師匠は、川崎競輪の小原太樹選手といい、「チーム小原」のユニホームを着用して競技に出場する。

代々競輪選手

 東山さんは2001年、川崎区の日本鋼管病院で生まれた。祖父の幸次さん=故人、祖母の二三代さん(90)、父親の公昭さんは元競輪選手だったため「自分もいつかは競輪選手になる」との思いを抱いていた。幼少時は「父は月の半分は遠征で家にいなかったけれど、家族の日常に競輪があった」という。父親の練習についていった記憶を覚えている。公昭さんの現役引退の時には大泣きした。

 幼い頃から柔道に励んでいた東山さん。早々に頭角を現し、小学校時代は団体で全国大会に優勝し、最優秀選手に選ばれた。中学でも全国大会に出場。その後進学した東海大相模高校では60kg級で全国大会出場を果たした。大学からの誘いもあったが、肘や肩の怪我が続いていたこともあり、競輪選手を目指すことを決めた。高3の夏、部活を引退し寮を出ると「少しでも早く選手になりたい」と、小原選手の門をたたいた。

 競輪選手を目指して8カ月経過した頃には自転車に力を伝えられるようになり、乗り方のコツがわかってきたという。事故はそんな矢先の出来事。自転車で公道を走っていた際、自動車に衝突。気がつけば病院の集中治療室にいた。事故の一報を受けた公昭さんによると「頭皮がはがれ、全身骨折していた」という。医師から言われたのは「命があったことを幸せに思ってください」

 東山さんによると、手や足を失い、その感覚が全く無くなったりしても、手足があるように感じられるという。雷が落ちたような痛み(幻肢痛)にも襲われる。「それは今も続いています」

障害者手帳で現実受け止め

 腕の再建手術は5度行われた。手術が行われたことで東山さんも公昭さんも「競輪選手再起の道が開けたと感じた」が、医師からは「自転車に乗れるとは思わないでほしい。次に転んだら、腕を切断することになる」と厳しい現実を突きつけられた。

 リハビリを繰り返す中、パラスポーツの映像を見て「これもありかな」との思いを抱いた。障害者手帳が発行され、現実を受け止めた。

 退院から一年後、パラ競技を開始。どんな競技があるのか、(障害者スポーツ文化センターの)横浜ラポールの担当者から薦められたのがきっかけだった。

 元々走るのが好きだった東山さん。5月の横浜パラ陸上では50m走に出場し優勝を飾り、大会新記録でデビューした。また、10月に鹿児島で行われた「全国障害者スポーツ大会」にも出場。50m走(クラス別)で6・61秒を記録して優勝し、立ち幅跳びでは2m43cmで2位をマークした。

師匠も「勇気もらう」

 東山さんの活躍を、師匠・小原選手も温かく見守る。「とにかく前向き。あれだけの大怪我をしても人前では明るく振る舞って逆に周りにパワーをあげるぐらい明るい」と東山さんを評する。「今でも師匠と呼んでくれるのが本当に嬉しい」といい、弟のような東山さんが頑張る姿からいつもパワーをもらっているという。

 1月からアスリート選手として一般企業の社員にもなった東山さん。ジャパンパラ陸上で好記録をマークするのが今年の目標だ。昨年暮れには、オリンピックやパラリンピックなど世界レベルの競技大会で輝く未来のトップアスリートを発掘する「Jスタープロジェクト」でのクロスカントリーで、スキーにも挑戦することになった。「二刀流で夏冬のパラリンピック出場を目指したい」と東山さんは力を込める。

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