意見広告・議会報告
市政報告 戦後80年・川崎大空襲歴史忘れず次世代へ 川崎市議会議員 松原しげふみ
先の大戦において我が国は米軍の激しい空襲に見舞われ、人的・物的共に甚大な損失を被り、その記憶は戦後80年となる今日においても鮮烈なものとなっております。しかし、ともすれば「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の例えではありませんが、心を痛めた戦禍の記憶は川の流れのように留まることなく過ぎ去り、戦争を体験した方々の生の声を聞く機会が失われようとしております。戦争の記憶を風化させてはなりません。後世に伝えることが今を生きる私達の責任であり、義務であると思います。
全国戦災史実調査報告書によれば、米軍による日本初の空襲は昭和17年4月18日。東京、名古屋、神戸などの大都市で、同日には京浜地帯に対する空襲があり、日本鋼管などがわずかに被爆したとあります。その後、単発的な空襲はあったものの、昭和20年4月に入ってから川崎市が本格的な空襲の下にさらされ、4月4日には空の要塞と呼ばれる最新鋭の重爆撃機であるB29による波状攻撃を受けました。主たる目標は大師・田島地区とされましたが、川崎・中原・高津地区にも及んだとのことであります。その復旧のさなか、次の大空襲を受けることになります。4月15日午後10時から翌午前1時過ぎまで、延べ250機に及ぶB29の攻撃がありました。この日の空襲は川崎市が受けた最大の空襲でありました。市内の被弾数は、焼夷弾9千発、爆弾1340発と推算され、御幸・田島・大師地区にわたる市街地は一日で烏有に帰し、日吉・高津・橘地区にも被害が及びました。特に油脂焼夷弾を投下された所では火勢が広がり、消火に苦しみ消失した家屋は3万3361戸に達し、10万人以上の人が住家を失い、おおよそ1千人が亡くなったとされています。この日の空襲が「川崎大空襲」であります。
川崎市では日露戦争以後に戦没された方々や戦災死者の冥福を祈るため、昭和35年7月に夢見ヶ崎動物公園内に「川崎市戦没者慰霊塔」(写真)を建立しており、10月上旬にはエポックなかはらで「川崎市戦没者追悼式」が執り行わております。また、川崎大空襲から80年となる本年4月15日、川崎市役所本庁舎が平和の祈りを込めた平和と公正を示すシンボルカラーである青色でライトアップされました。
終戦から80年を迎え、私達は何事にもかえ難い日常が「平和であること」の感覚を常に持ち続けたいものであります。
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![]() 川崎市戦没者慰霊塔
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松原しげふみ事務所
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