麻生区 コラム麻生の歴史を探る
公開日:2014.09.12
麻生の歴史を探る
麻生の古道(7)〜歴史の証人〜
麻生周辺には鎌倉道に関わる伝承が多く、稿を重ねてしまいました。その伝承の年代を追ってみますと、町田市大蔵の悪源太義平(頼朝の兄)の大蔵鐘の伝承が保延5年(1139)。上麻生や栗木、亀井の伝承が平治元年(1159)の頃。後白河法皇の笹子姫の逸話は治承2年(1178)と伝承され、頼朝の旗上げは治承4年、幕府が開かれ”いざ鎌倉”の鎌倉街道が創設されたのが建久2年(1191)頃といわれますから、鎌倉街道開設以前からこの地方には鎌倉に関わる道の原型がすでにあったということになります。
この地方の鎌倉道が大きな戦に巻き込まれるのは、伝承によると開設140年余を経た元弘3年(1333)新田義貞の鎌倉攻めで、続いて正平7年(1352)足利尊氏、直義兄弟の鎌倉を巡る戦に利用されますが、最も戦塵を受けるのは応永年間(1416前後)の鎌倉公方・関東管領争いの上杉家争乱で、さらにその争いに乗じた北条早雲(後北条氏)の関東進出(1459)はこの地方を戦場化し、新しい軍道を作っています。
現在、麻生の古道は相次ぐ都市開発でその跡をなくしてしまいますが、その反面、開発に伴う文化財調査はこれらの道の存在を明らかにしています。また幸いなことにこの地方には、幕末から明治14年にわたり作成された「フランス式彩色地図」があり、それには都筑丘陵特有の谷戸、集落、尾根が青色の等高線で示され、江戸道、そして古道と思われる道筋が記入され、伝承とあわせ麻生周辺の古道を探る上での参考になっています。
この地図で見る麻生の古道の特徴は、部落や目的地を最短距離で結ぶためか尾根道が多いこと、そしてそこには寺社や景勝地(森)があり、彩色地図には尾根に”松” ”楢”などの目標樹が示されていることです。軍略的にも尾根道は比較的坂が少なく、地盤が堅固で騎馬の通行が安全だったこと、高所の通行が戦略上重要であったことなどから尾根道が利用されました。軍馬は35度以上の坂道の登坂は困難だったとも言われます。
古代、武蔵国府は府中、都筑郡衛は荏田にあったと言われ、そこに集まる祖・庸・調を運ぶ道もあったでしょう。そして宗教文化は王禅寺などの社寺を造営し、庶民が詣でる信仰の道もあったと思います。前稿で黒川はるひ野の”多摩よこやまの道”を記しましたが、同じ防人の”足柄の峰延ふ雲”を詠んだ歌は、その情景から麻生区内から詠まれたものと思われます。それがどこであるかはわかりませんが、わかっているのはこれらの祖庸調、参詣路、防人の道は、武蔵野や相模野とは異なる多摩丘陵の趣のある尾根を、遠く富士・丹沢を望み歩んだことで、そのことは麻生の古道独特の歴史を作り上げています。
現在この麻生周辺に幽かに残る古道の跡は、それがいつの時代のものかはっきりしません。道はその頃そこに住む人の生活、その時代の社会を表したもので、その積み重ねが現在に至っているのでしょうが、その意味で”道は時代の証人”です。麻生の古道は、古代租庸調の道から、防人の道。道は鎌倉に通ずの鎌倉道。室町時代、鎌倉公方の存在はその道を多様化させ、戦国時代における北条早雲の登場は人馬の流れを小田原に向け、そして江戸時代、これらの道筋は、江戸道(津久井往還)、神奈川道(日野往還)などの産業隆盛道となりますが、その中にあって、私どもの祖先の暮らした里道はその歴史を作っていました。
参考資料:「川崎市史」「川崎市域の中世古道(中西望介)」「明治前期測量フランス式彩色地図」「柿生ふるさとの歩み」
文:小島一也(柿生郷土資料館相談役)
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