麻生区版 掲載号:2014年11月21日号 エリアトップへ

麻生の歴史を探る 麻生郷〜尊氏領〜

掲載号:2014年11月21日号

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麻生郷尊氏所領文書
麻生郷尊氏所領文書

 麻生という地名が初めて公文書(文献)に出るのは、元弘3年(1333年)8月5日付の後醍醐天皇による建武の中興の恩賞の中で麻生郷が足利尊氏に与えられたことを記す文書(比志島文書)です。尊氏は全国に多くの所領を得ますが、そのひとつが鎌倉に近い麻生郷で、その文書中に時顕とあるのは北条一門の安達時顕と思われ、鎌倉幕府直轄の時顕の所領が尊氏に与えられたといわれます。なおこの時顕は執権職を務めた名族で、元弘3年鎌倉東勝寺で北条高時とともに自刃しています。

 こうして得た麻生郷を尊氏は康永4年(1345年)に足利家の祈願所である鎌倉山の保寧寺(現在廃寺)に寄進しており、その折保寧寺は公儀守護代から「武蔵国麻生郷内本郷堀内乳牛役之事、諸御公事御免之間、不致沙汰之条、所見分明之間、任先例令閣之由候也 仍執違如件、康永4年2月10日 薬師寺橘(花押) 保寧寺長老」(岡本文書)を得ています。これは麻生郷の名が記された2番目の公文書で、麻生郷の中の本郷・堀内について乳牛役(乳牛を対象とする税)を先例の通り免除するとしたもので、薬師寺橘とは幕府の公儀を勤める役人の名と思われ、保寧寺長老宛になっています。

 そして3番目に麻生郷の存在が分かる公文書は、正平7年(1352年)足利尊氏が自領の麻生郷を争乱から守るために出した禁制(相州文書)で、「武蔵国都筑郡内本郷堀内 軍勢甲乙人等 不可致乱入狼藉 若令違反者 可処罪科之状如件 正平7年正月8日 尊氏花押」と記されており、この頃足利尊氏・忠義兄弟確執は忠義が鎌倉を占拠、菅の小沢城を焼いています。軍勢甲乙とあるのはこの時尊氏は軍勢を率いて鎌倉入りをしており、その折尊氏は尊氏道の早野から麻生郷に立ち寄っていたのでしょう。

 奈良から平安時代、武蔵国都筑郡には餘戸、店屋、立野などの郷名は、あっても麻生の名は、ありません。その名が出るのは、鎌倉末期と思われますが、定かではありません。はっきりさせるのが前記の3公文書ですが、これらの文献は中世におけるこの地方の歴史を探る上で大変貴重で、県・国資料館所蔵となっています。

 この文書でわかることは、この麻生郷は、尊氏の所領となる以前は北条一門安達氏の領地で、尊氏はこれを踏襲していることから、鎌倉期から麻生郷は在ったかとも思われる事と、麻生郷内には本郷・堀内という所があり、当時この地には乳牛が飼われていたことです。そして尊氏はこの地にのみ治安保護の禁制を出したのか、興味深いものがあります。

 それではこの本郷、堀内とはどこを言うのでしょうか。このことを武蔵風土記稿は「麻生」の項で「此郷名ヲツカウモノ王禅寺、万福寺村に限リ・・・」として王禅寺村は麻生より別れたと記し、郷の中心は上・下麻生とし、川崎市史は本郷・堀内が上下麻生村内を前提に、本郷とは中心となる集落、堀内とは武士か豪族の館ではと述べ、鶴見川中流域のこの地に乳牛が飼育されていたのでは、としています。

 参考文献:「川崎市史資料編」「新編武蔵風土記稿」「川崎市地名辞典」

 文:小島一也

(柿生郷土史料館相談役)

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