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麻生区 コラム

公開日:2023.06.16

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」校歌・草創期の苦心談【1】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • 初代校長 匂坂孝一郎先生(S22・4〜23・9)

  • 初代教頭 丸山一先生

  • 2代校長 小島喜芳校長(S23・10〜28・3)

  • 家庭科の研究授業風景(S26・1)

◆先生方の回想◆ 

 創立時の柿生中学校は、1、2年生182名に先生8名でのスタートでした。自前の校舎もなく、小学校から4教室を借用してのスタートでした。校地の選定や校舎建築の苦心談については、以前に記しましたが、PTAや校舎建築委員会、そして青年団や地元の人たちの熱心な協力によって、実現したものでした。

 事実はその通りなのですが、先生方とりわけ学校の代表である校長先生の苦心もまた大きかったのです。初代の柿中の校長で、僅か1年半で静岡県へ出向するために退任された匂坂孝一郎先生は、ナイナイ尽くしの環境の中、目立たないけれどもなさねばならぬ仕事を黙々とこなす、縁の下の力持ちとも言うべき仕事をなさった方でした。

 市街地の学校では、栄養失調や栄養不良の生徒が目立つからと、柿中生徒の栄養調査を生徒の弁当調査という形で実施し、弁当不持参の生徒は1人もいなかったこと、弁当の中身は先生方の弁当よりもずっと良いものだった事を確かめ、農村地帯の食糧事情は、都会よりも良いことを確認されました。また、狭い運動場のため、放課後の野球練習では、ボールが耕地を飛び越えて近所の方の畑に飛び込み、球拾いの生徒たちが畑を踏み荒らして困ると、きつい苦情とお叱りをうけて、ひたすらお詫びに徹せられたこともあったそうです。

      (つづく)

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