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麻生区 コラム

公開日:2023.09.08

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」柿生隧道切り通しに【1】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • 昭和33年9月の柿生隧道。崩れた土砂を片側に片づけた様子が生々しい

  • 切り通しとなった柿生隧道址。手前は柿生中学校の擁壁(平成12年当時)

◆宅地化とモータリゼーションの進展で...◆

 柿生隧道建設のいきさつは、以前に記しました。柿生地域が川崎市に編入された昭和14(1939)年に掘削計画がたてられましたが、戦争のため先送りされ、昭和26(1951)年にようやく完成したトンネルでした。完成当時は首都近郊の長閑な農村地帯でしたから、車の通行は稀で、ほとんどは徒歩や自転車での通行でした。そんな柿生地域に変化をもたらすきっかけとなったのは、昭和31(1956)年の柿生〜溝の口間の市営バスの運行開始でした。運転士と車掌さんが乗務し、車掌さんが車内を巡回して切符を切るボンネット型の車高のあまり高くないバスです。溝の口まで直通で運行するバスは、日に5本しかなく、朝の6時台〜19時台まで全14本のうち、9本は琴平下止まり(後日吉まで延長されて、日吉止まり)だったのです。朝夕の混雑時でも、1時間に2本の運行でしたが、それでも、王禅寺や早野、下麻生の皆さんにとっては、柿生駅まで歩かずに済むことから、バスの運行は歓迎され、会社勤めの若い人たちが、下宿を引き払って自宅から通うようになるなど、地域が活性化する効果も見られたのです。

     (つづく)

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