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麻生区 コラム

公開日:2023.09.15

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」柿生隧道切り通しに【2】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • 昭和33年9月の柿生隧道。崩れた土砂を片側に片づけた様子が生々しい

  • 切り通しとなった柿生隧道址。手前は柿生中学校の擁壁(平成12年当時)

 時に昭和30年代〜40年代前半にかけての、岸内閣、池田内閣、佐藤内閣の時期は、日本の高度成長期にあたり、右肩上がりの高い経済成長が続きました。企業は競って生産設備を増強して増産に走ります。営業職員や輸出業務の担当者、さらに複式簿記をマスターした経理担当も揃えなければなりません。当然給与もまた毎年のように増えていったのです。そうなると、マイホームの夢も銀行ローンを組むことで可能になります。こうして首都近郊にあたる柿生地域にも宅地化の波が押し寄せてきたのです。

 最初の大型造成工事は、住宅都市整備公団による百合丘団地の造成・建設工事でした。柿生に隣接する高石地区でした。

 昭和35(1960)年3月に現麻生区では2番目の駅として百合ヶ丘駅が開設され、同年11月に百合丘団地の入居が始まったのです。翌36(1961)年には、三井細山住宅の第一次入居が始まり、39(1964)年には、上麻生の亀井に警視庁職員用の住宅団地の用地買収が始まり、その前年には、規模は100軒程度と小規模でしたが、王禅寺の梨の木団地で買主たちによる宅地造成も始まりました。麻生台団地や虹ヶ丘団地の造成も60年代後半には行われ、70年代に入ると、小田急多摩線の建設工事が急ピッチで進み、49(1974)年には新百合ヶ丘駅が開設。翌年には多摩線が全線開通。沿線の宅地化も急ピッチで進んだのです。

       (つづく)

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