戻る

麻生区 コラム

公開日:2023.10.13

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」柿生隧道切り通しに【3】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • 昭和33年9月の柿生隧道。崩れた土砂を片側に片づけた様子が生々しい

  • 切り通しとなった柿生隧道址。手前は柿生中学校の擁壁(平成12年当時)

 柿生地域の宅地化の進展とともに、1960年代からの著しい変化は、マイカーブームの到来でした。柿生隧道を通過する自動車の数も年毎に増え続け、道幅の狭い柿生隧道はすれ違いに苦労するなど、次第に苦情が多くなります。トンネルの上部の地盤がゆるいため、大雨の折など写真のような小規模な土砂崩れが起きることもあって、そのたびに車は片側通行を強いられたことも、苦情の原因になりました。そこに座高の高い大型観光バスや重機を積んだ作業車両が通れないなどの問題も生じ、トンネル内で若い女性の殺人事件が起きるなどしたこと、老朽化も進んで補強工事が必要となったことなども加わり、この際トンネルを壊して切り通しとし、道幅も広げようということに衆議一決したのです。道幅を広げるために必要な用地については、東の真福寺側と西の上麻生側とが、何度も協議を繰り返して互いに無償で提供することで合意に達し、昭和53(1978)年にトンネルと上部の山を崩し、道幅も広げて歩道も確保し、青空や星空の見える現在の道になったのです。柿生方面から見て、柿生中学校の擁壁を過ぎると、左右に同色の黒っぽい擁壁が約60m続きます。ここが柿生隧道跡の切り通しです。

(つづく)

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS