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麻生区 コラム

公開日:2023.11.10

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」そして「思い出の丘」(その1)【3】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • 柿小百周年記念の「思い出の丘」碑

  • 臼井義胤氏の肖像写真(左)と臼井義胤氏頌徳碑

 事情を聞いた臼井氏は、その場で建築費と経常費を賄う基金を提供すると快諾してくださったのです。こうして明治35(1902)年4月、現在の柿生中学校のグランドに、「高等義胤小学校」が誕生したのです。臼井氏の名を校名としたのは、氏に対する村人の感謝の念の現れでした。その後、教育制度の改変のたびに、校名も変更されたのですが、義胤氏の名は、昭和16(1941)年まで39年間校名に残されていました。昭和16年、校名が「川崎市立柿生国民学校」と改められた際に、当時の後援会が中心となり、臼井義胤氏の名と功績を、忘れることなく後世に語り継ぎたいと、頌徳碑を造ることにしたのです。碑には当時の川崎市長が揮毫した讃が記され、昭和十六年十一月三日の日付が刻まれています。ところが碑の建立寸前に日米開戦の日を迎え、建立は戦後まで延期されたのです。

(つづく)

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