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麻生区 コラム

公開日:2023.12.08

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」そして「思い出の丘」(その2)【2】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • (右)白井錠次郎先生頌徳碑。「思い出の丘」の臼井義胤氏頌徳碑のすぐ脇に並ぶように建っています(左)白井錠次郎先生

  • 青戸四郎右衛門先生

  • (右)明治10(1877)年 完成した頃の下麻生学校(左)青戸先生報恩碑。後方校舎と体育館を結ぶ渡り廊下

 そんな不利な環境の中、先生は懸命に正規の教員になるべく勉強を続け、5年後の明治20(1887)年「小学校簡易科教員」の資格を取得して見習の地位を脱したのです。それでもまだ正教員ではありません。先生はその後も研鑽に励み、明治33(1900)年には遂に正教員の資格を取得されたのです。この年先生は、晴れて尋常小学校の訓導(現在の教頭)兼校長に任命するとの辞令を受けたのです。勉強家の先生は、ご自身の特性も良く自覚されていらしたようで、「自分は低学年の子ども達の教育に専心したい」、「分教場や分教室で学ぶ子ども達と共にありたい」と、何度勧められても高等小学校への転籍に応じようとはしなかったのです。先生は一年生から四年生までが一つの教室で一緒に学ぶ、単級小学校の指導に熱中し、直接指導と自習を巧みに組み合わせた指導法を考案して、子どもたちの学力向上が実感できることを誇りにしていたのです。 (つづく)

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