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麻生区 コラム

公開日:2023.12.15

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」そして「思い出の丘」(その2)【3】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • (右)白井錠次郎先生頌徳碑。「思い出の丘」の臼井義胤氏頌徳碑のすぐ脇に並ぶように建っています(左)白井錠次郎先生

  • 青戸四郎右衛門先生

  • (右)明治10(1877)年 完成した頃の下麻生学校(左)青戸先生報恩碑。後方校舎と体育館を結ぶ渡り廊下

 こうして先生は上麻生分教室が廃校となるのを見届けて、大正11(1922)年12月、40年の教員生活に別れを告げたのです。

 先生の退職を伝え聞いた卒業生たちは、先生の恩に報いたいと頌徳碑の建立を思い立ちました。発起人もすぐに集まり、手分けして建立基金への募金を呼びかけた処、短期間に十分な金額が集まり、先生の退職から1年4ヶ月後の大正13(1924)年4月、校舎の跡地に「白井錠次郎先生頌徳碑」を建立することができたのです。分教室は無くなりましたが、分教室の跡地に残された校舎はその後もいろいろな学校の校舎とし利用されました。最初は「裁縫補習学校」となり、昭和10(1935)年からは「青年学校」になり、戦後は新設の柿生中学校の第2校舎のような役割を担ったのです。この間白井先生の頌徳碑は、校舎に出入りする生徒たちや先生たちに大切にされていました。しかし昭和27(1952)年、柿生中学校の第2校舎が完成し、上麻生分教室の建物は誰も利用することがなくなったのです。

      (つづく)

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