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麻生区 コラム

公開日:2023.12.22

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」そして「思い出の丘」(その2)【4】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • (右)白井錠次郎先生頌徳碑。「思い出の丘」の臼井義胤氏頌徳碑のすぐ脇に並ぶように建っています(左)白井錠次郎先生

  • 青戸四郎右衛門先生

  • (右)明治10(1877)年 完成した頃の下麻生学校(左)青戸先生報恩碑。後方校舎と体育館を結ぶ渡り廊下

 学校用地は川崎市の土地です。その川崎市が跡地に公民館を建設すると決めたため、白井先生頌徳碑はどこか先生に所縁のある、先生の碑を大切にしてくれる地に移設してはどうかということになったのです。検討の結果、上麻生分教室を吸収合併した「義胤尋常高等小学校」の後身、「柿生小学校」に移設することが、もっとも相応しいということになったのです。こうして白井錠次郎先生頌徳碑も丘の上の柿生小学校に運ばれ、「思い出の丘」の臼井義胤氏頌徳碑のすぐ近くに据えられ、丘の住人となったのです。今に伝わる「思い出の丘」の全ての住人が揃ったのです。

 しかし柿生小学校は、昭和34(1959)年に片平の現在地に新築移転しました。その折、小学校に所縁があり、小学校教育に特に資するところの大きい「白井錠次郎先生頌徳碑」は、「思い出の丘」に残されたのです。柿生小学校の移転の際に、何故先生の頌徳碑も一緒に移設されなかったのか、その間のいきさつは詳らかではないのですが、東柿生小学校の校舎の正面で、花に囲まれて日々大切にされている「青戸先生報恩碑」に比べると、どこか寂しげです。     (つづく)

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