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麻生区 コラム

公開日:2024.01.05

柿生文化を読む
シリーズ「草創期の柿生中学校」そして「思い出の丘」(その2)【5】文:小林基男(柿生郷土史料館専門委員)

  • (右)白井錠次郎先生頌徳碑。「思い出の丘」の臼井義胤氏頌徳碑のすぐ脇に並ぶように建っています(左)白井錠次郎先生

  • 青戸四郎右衛門先生

  • (右)明治10(1877)年 完成した頃の下麻生学校(左)青戸先生報恩碑。後方校舎と体育館を結ぶ渡り廊下

 青戸四郎右衛門先生は、「思い出の丘」の住人ではありませんが、柿生地域の近代初等教育の幕開けに大きな足跡を残された大恩人です。先生の事績は、本誌で連載していたシリーズ『日本の學校と教育』の第10回に記しましたので省略しますが、寺子屋の師匠をしていた関係で、明治6(1873)年に下麻生村、王禅寺村、早野村の3か村で設立した下麻生学舎の教員に横滑りされました。何もかもが手探りの上、中央の文部省や県庁からの指令も朝令暮改、その上悪童たちの指導という激務の日々に、青戸先生以外の教員たちは長続きせず、短期間の勤務で学校を去っていったのです。実際に明治10(1878)年からの10年間に、下麻生学校に在籍した先生は青戸先生以外に9名もいらっしゃるのです。あまりに頻繁で退職年月日の分かる先生はお1人しかいらっしゃいません。ですから、明治の世も20年代を迎え、ようやく日本の近代教育が整い始めるまでの揺籃期、下麻生学校の教育は青戸四郎右衛門先生が殆どお一人で支えていらしたと言って過言ではないのです。   (つづく)

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