さがみはら中央区 社会
公開日:2025.07.17
幼い記憶 戦争の影
中村弘美さん・カヨ子さん
「話せることなんてないですよ。あまり悲惨な経験もしていないし」。中央区向陽町在住の中村弘美さん(87)は控えめに呟くが、幼い頃の記憶には、今も忘れられない母の面影がある。
「みんな死んで帰ってくればいい」。出征した父の名前が載った「戦死広報」を読み、母が泣き崩れながら漏らした言葉。普段は「チャキチャキして頼もしい存在だった」だけに、弘美さんは「ただごとではない」と感じた。
弘美さんは東京都港区の出身。小学校に入学して間もなく新潟県へ縁故疎開したが、その間に「焼夷弾が7発落ちて故郷が焼け野原になった」。約1年後、満州から引き揚げてきた母の妹を頼って相模原へ。住まいは旧日本陸軍が1940年に建設した相模陸軍造兵廠(現在の米軍相模総合補給廠)内の共同住宅だった。兵舎や学校を擁する広大な敷地には、多くの引き揚げ者が身を寄せていた。「母に連れられて上溝まで芋を買いに行ったが、帰り道は荷の重さに足が進まなかった」
後に造兵廠が米軍に接収され、追い出されるような形で公営住宅へと転居。集まっていた人たちは市内各地に散らばり、弘美さんは現在も暮らす向陽町へと落ち着いた。
忘れ得ぬ空襲の夜
同じく東京都出身の妻・カヨ子さん(83)もまた、戦中戦後の記憶を胸に刻む一人だ。幼い頃のことはあまり覚えていないが、空襲警報の鳴る夜、照明弾に照らされて一面が明るくなり、バチバチという音の中を両親に抱えられて必死に逃げた記憶は、今も鮮明に脳裏に焼き付いている。
戦後は一家で北海道へ渡り、開拓地で農業に勤しんだ。「役場から話をもらい、両親が苦労して開墾していた。田んぼを作ってお米を穫って食べるまで何もなくて大変だった」。しかし、兄が病に伏し、両親は看病に専念。農業を続けられなくなった一家は、つてを頼って相模原に移り住んだ。
2人は銃弾が飛び交う戦場に立ったわけではない。しかし、幼い目に映った親たちの姿や、戦後を生き抜いた日々の記憶には、戦争の影が確かに刻まれている。引き揚げや疎開を経て相模原に根を下ろした歩みは、この街の戦後史の一端を静かに語りかけてくる。造兵廠での暮らし、支え合って生きた日々――その積み重ねが、今の暮らしにつながっている。
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