さがみはら中央区 社会
公開日:2025.08.14
もらえなかった卒業証書
名古屋市出身 野田眞子さん
「私ね、小学校の卒業証書もないの」--。相模原市内の特別養護老人ホームに暮らす野田眞子さん(92)は、1932年(昭和7年)、現在の名古屋市千種区今池に生まれた。
卒業前夜の大空襲
「今でも思い出すと寒気がする」。あの夜、野田さんは小学校の卒業式を翌日に控えていた。1945年3月19日、一夜にして826人が亡くなった「名古屋大空襲」だ。負傷者は2728人、罹災者は14万人以上に及んだ。
多くの工場が立地する工業都市であり、航空機産業のメッカでもあった名古屋。航空機生産の最大拠点である三菱重工業名古屋発動機が米軍による日本本土空襲の第一目標の一つとなっており、繰り返し目標爆撃の対象になった。その上、中小工場が散在する密集した住宅街の住居はほとんどが木造で、致命的ともいえる防空上の弱点を持っていたとされる。
「B29っていうのはね、ものすごい音。重い音なの。それから照明弾で昼間みたいに明るくなって、六角形の50センチくらいの焼夷爆弾が、束になって落ちてくるんです」。野田さんは二人の弟と母と共に防空壕へ逃げ、ビール会社に勤めていた父は会社へ向かった。「音がしたと思ったら火が防空壕の中へ入ってきてしまい、出るしかなかった。外は一面の火の海」。父親が迎えに来て会社へ避難できたが、「気がつくと母に背負われていた下の弟は顔をやられ、血だらけだった」
名古屋市街は一夜にして焼け野原となった。「なんにもないの。ここ(東淵野辺)から大野や橋本くらいの距離がまるっきり見えていた」
つないだ命
一家は避難した群馬県で終戦を迎えた。父の転勤で九州へ引っ越すも数年後に父が亡くなってしまい、親戚を頼って各地を点々とした。野田さんは母を手伝い、働き始める。「父が死んで母も苦労していて自分も働いていて精一杯。学校のことなんて考えなかった」
横浜に落ち着き、慣れない土地でなんとか暮らしていたある日、新聞配達をしていた上の弟の働きぶりがある屋敷の主人の目に留まり、「電電公社」に就職が決まった。「弟が家族を助けてくれた。本当にそれから命をつないで、ここまで来たんです」
「おかげさまと」、結婚して子どもに恵まれ、夫とはたくさん旅行にも行った。今の暮らしも「幸せ」だ。ただ、報道で目にする昨今の情勢には顔を曇らせる。「怖いような気がするの。戦争の前はね、食料もいっぱいあって何一つ不自由のない生活だった。それが、全滅」。大空襲を生き延び、家族と命をつないできた野田さん。伝えたいことは、「戦争だけは絶対に起こしちゃだめ」それだけだ。
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