町田天満宮 宮司 池田泉 宮司の徒然 其の83
松ぼっくりの悲哀
以前、ツキミソウやユウゲショウの種=写真右=の落とし方について記した。これらは本体も全て枯れたとしても、種房は雨でぬれると花のように開き、さらに雨で下にこぼれ落ちる。水分によって種には粘性ができて虫や鳥や動物にくっつくことで移動する。種房は乾くと閉じて残りの種を包んで次の雨を待つ。たとえ種がなくなってしまっても繰り返して、やがて自らも朽ちていく。
松ぼっくり(松毬、松傘)は反対に、乾くと開いて鱗片(りんぺん)の間にある羽根付きの種を落とす。親木の根元に落ちたのでは、いずれ親とけんかになるから、羽根で風を受けてなるべく遠くへ飛ばしてもらう。そのため、乾いていることが必要条件だから、松ぼっくりはぬれると鱗片を堅く閉じ、乾くとまた開く。たとえ地上に落下しても開閉を繰り返せるのは、鱗片の外側と内側の繊維の密度が違うためか、外側だけ水分による伸縮が大きい繊維質を持っているのではないだろうか。もちろん、親木から落下して堅く乾いた松ぼっくりは、たくさんの種を挟んだまま死んでいる。でも開閉を繰り返す機能を持ったまま。死してもなお種の散布のために開いたり閉じたり、まるで生きているかのように。
それに比べたら人間は、たいてい灰になって何の役にも立たなくなる。せめて土葬なら地球の養分になれるのに。しかし、人間は生前に残せるものがある。偉大な研究成果を残したり、多くの人たちのリーダーとなって努力し、地域や人々を幸せにしたことなども当然そうだが、人間性が好かれて見習う人や目標としてくれる人がいたり、家族を守り、良い思い出づくりをしたり、死しても様々に残せるものはある。ただし、お金は上手に残さないと大変なことになりがち。また、人類には文字がある。多くのことを後世に残すことができる。
松ぼっくりが狂おしいほどひたむきに、同族のため、子々孫々のために、枯れても開閉をくりかえすのを見ていると、涙ぐましくて切なささえ感じてしまうが、そういえば今まさに、死してもなお開かれようとしているものがあった。赤木ファイル。梅雨が明ける頃に開いて追い風が吹けば真実の種を飛ばすのか。
|
|
|
|
宮司の徒然 其の137町田天満宮 宮司 池田泉12月21日 |
|