中村さんに聞く
今年も終戦記念日がやってくる。1945年8月15日、その人は「悲しさ」と「嬉しさ」、半分半分の気持ちでいた。大和田町にある(株)八王子印刷の会長、中村友子さん(91)に戦時中の話などを聞いた。
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中村さんは1930年(昭和5)、渋谷区で生まれた。7人きょうだいの五女。父親は建材業を営んでいた。
日本橋が空襲されるなど東京都心での戦火が激しくなると、小学2年生だった中村さんは2人の弟と山梨県の親戚宅へ疎開した。
ナイフが額に
戦時下での最も辛い思い出は、5つ下の弟を亡くしたことだ。
都心から訪れた弟は、地元の子どもたちと少し違う雰囲気があったそう。その点で弟は学校でいじめを受けた。登校途中、背負っていたランドセルをナイフで切り刻まれたことがあり、その際弟が振り向くとナイフが額に刺さった。病院に運ばれたが3日後、息を引き取った。10歳だった。「その弟の最後の言葉が『白米のおにぎりを食べたい』だったんです」。中村さんは思い出し、目を潤ませた。当時、食事は満足にできず、口にするものと言えばカボチャやジャガイモくらいでおにぎりは大変貴重だった。中村さんによると、落ち込んだ母親はその後、1年間、ご飯(米)を食べることができなかったそうだ。
伝える使命感
「悲しい。絶対勝つと思っていた」。中村さんが玉音放送を聞いた時の感想だ。ただ、その後すぐ「もう部屋を明るくしていいんだ。勉強もできる」という嬉しい気持ちも湧いてきたそう。そして76年経った今、思うのは「戦争は絶対いけない。どんなことがあっても平和でなければ幸せでない」。そして、我々が伝えてなければいけない―。そんな使命感に駆られている。「もちろん、食べ物も大切にしないといけませんね」
町田さん「いずれ資料館を」
「この戦争体験を次世代へ」。中村さんと同じような思いでいるのは、飲食業株式会社クレア会長の町田典子さん(85)だ。
町田さんは3歳のとき、満州で軍務に就く父の所へ渡り、現地で終戦を迎えた。「死の淵を彷徨った」という引き揚げ時の過酷な体験については、これまで様々なメディアで取り上げられている。
一方、町田さんは絵画を通じて平和へのメッセージを発信する団体「一般財団法人日本漫画事務局八月十五日の会」の理事を務めており、その関係から多くの戦争関係資料を持つ。当時の手紙や写真などが今でも全国から町田さんの所へ送られてくるそう。町田さんは「この貴重な資料を見るたびに、いずれ市内に資料館を作ることをライフワークにしたいと思います。それが私に与えられた使命とも思います」と話した。
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