終戦の約2週間前の8月2日の未明、寝静まった八王子の街を、すさまじい爆撃が襲ったー。
串田玲子さん(89・寺田町在住)は、のちに死者約450人とも言われる「八王子空襲」を経験した一人だ。当時、八王子市第三国民学校(現在の市立第三小)の4年生。この日の前日、学校の校庭で、米軍が空からまいた伝単と呼ばれるビラを手にした。それには八王子など12の都市の名前と共に、「日本國民に告ぐ/数日のうちに爆撃します」といった予告が記されていた。その晩、家族と中町にあった実家から、より爆撃されにくいと考えた万町の借家へ避難したが、その甲斐もむなしく、未明の爆撃が一家を襲った。
耳をつんざくような爆音に飛び起きた串田さんは、隣で寝ていた5歳の弟を揺り起こした。しかし、弟は起きない。そうこうしているうちに焼夷弾により布団から煙が上がり、天井や障子がメラメラと燃え始め、命の危機を感じた串田さんは夢中で家を飛び出した。
「秀男ちゃんは?」。逃げ込んだ防空壕に先に着いていた母に弟のことを聞かれ、ハッとした。愕然とする串田さんを横目に、すぐさま抱いていた1歳の妹を兄に預けた母は、弟を救いに燃え盛る家に飛び込んでいった。
夜が明け、太陽が昇り切った後、燃え落ちた自宅の前で立ち尽くす串田さんを母親が探しに来た。「まるで映画のワンシーンのような対面だった」。弟も無事に助け出されたことを聞かされ、思わず涙があふれ出たという。
戦争、遠い出来事だった
あの日、まちに落とされた焼夷弾は約66万個。爆撃は万町や小比企町などを中心に約2時間続き、市街地の約8割を焼け野原にした。
「(国民学校で)教えられた軍隊の歌を歌っていた。意味もわからないまま」ー。まだ物心がついていない頃に戦争が始まり、学童期を戦争と共に過ごした串田さん。食料についても、両親が工面に奔走してくれていたのか、「(戦後に比べれば)まだ食べる物はあった」と日常にそこまで不自由さは感じていなかったという。ラジオでは「日本は勝っている」という戦況が日々伝えられていたが、それも「どこか遠い場所での出来事のように感じていた」と振り返る。それがあの夜に、「『逃げなきゃ』となった瞬間、今が戦争中であると初めて思い知った」
弟が助かっていなければ、串田さんは幼心に深い傷を負ったことだろう。戦争の悲劇は、子どもたちにも容赦なく襲いかかるものだから。
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