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公開日:2025.08.21
湯(い)の花トンネル列車銃撃事件
80年の思い それぞれに
元乗客や遺族 慰霊に集う
太平洋戦争末期、乗客を満員にして走行中の列車が八王子市裏高尾町の「湯(い)の花トンネル」付近で米軍戦闘機の銃撃を受け、50人以上の乗客が亡くなった。この事件から80年後の今年8月5日、現場近くで慰霊の集いが開かれ、銃撃を生き延びた元乗客や遺族らが慰霊碑に花を手向けて犠牲者を悼んだ。
事件が起きたのは、終戦10日前の1945年8月5日。3日前の八王子空襲で不通になっていた中央本線がようやく復旧し、新宿から長野へ向かう列車の車内は多くの乗客でごった返していた。列車がトンネルに差しかかった午後0時20分頃、東の空から飛来した米軍の戦闘機が列車に繰り返し機銃掃射を浴びせ、乗客52人以上が死亡、133人が負傷した。
列車銃撃の被害としては国内最大規模とされる事件だが、当時は戦時下の情報統制で詳しい被害が公表されず、戦後になって家族が犠牲になったことを知った遺族も少なくなかったという。その後、市の戦災調査をきっかけに「いのはなトンネル列車銃撃遭難者慰霊の会」が1984年に発足。犠牲者の身元を明らかにする調査を進めるとともに、犠牲者を悼み、この悲劇を語り継ごうと毎年、慰霊の集いを開いてきた。
節目の年
事件から80年の節目を迎えた慰霊の集いには例年より多くの参加者が訪れ、献花後には近くの集会所で懇談会も催された。
自身も列車に乗車し、同乗していた姉を目の前で亡くした遺族会会長の黒柳美恵子さん(93)は「近年、海外で起きているような悲惨な戦争がかつて日本でもあり多くの人が亡くなった。戦争を知らないこれからの世代に戦争の恐ろしさや平和の素晴らしさを伝えていきたい」と決意を述べた。また当時9歳だった榎本久子さん(89)も参加者に自身の体験を語った。
初参加の遺族の姿もあった。報道を通じて慰霊の会の活動を知り、今年1月に父親の田村米蔵さんが事件の犠牲者の一人だったと判明した松本三津子さん(88)と井澗裕子さん(81)姉妹だ。「80年を経て父の亡くなった場所がわかり、慰霊の集いにも参列することができた。現場を見たら涙がとまらなかった」と心情を語った。
当時13歳だった三宅修さん(93)は、学徒勤労動員中にたまたま列車銃撃の現場近くに居合わせ、近所の農家の雨戸を外して負傷者や遺体を運んだ体験を語った。「列車内では血だらけの人たちが色々な叫び声をあげていて、その声が長らく頭から消えなかった。あんな思いは二度としたくない。戦争はいけない、生きていることが何より大切」と振り返る三宅さんの話を参加者は涙をぬぐいながら聞いていた。
もう一人、手を挙げて語ったのは今井昌史さん(52)。祖母の丹野玉子さん(当時19歳)は、車掌としてこの列車に乗車しており、運よく生き延びた。「祖母は亡くなる直前まで『あのとき自分が発車させなければ』と悔やみ続けていた。80年の節目に、その思いを少しでも伝えたいと思い参加した」と話した。
継続の決意
慰霊の会の齊藤勉会長は「事件から80年、慰霊の集いも42回目となり、これまでに犠牲者の身元も50人まで判明した。この流れを止めることなく、亡くなった人や平和への思いを新たに、これからも活動を続けていきたい」と思いを語った。
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