綾瀬版 掲載号:2014年8月8日号 エリアトップへ

〈第2回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる(2) あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

掲載号:2014年8月8日号

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 渋谷重国の祖父、秩父二郎基家が、秩父より橘樹郡河崎(きつきぐんかわさき)に進出。河崎冠者(かんじゃ)を称し西進を図る。無人の野を往くのではない。先住の小土豪・開拓者達が立ち塞がったことだろう。争乱や示談、婚姻等で地域の経世済民や治山治水を図りながら、血の滲むような努力が実り永久年間(1113〜1118)の頃、渋谷庄進出成る。この頃も気候温暖の地だったのだろう。藤沢市長後の天満宮の付近に居館を構え守護神として天満宮を建立したとある。

 その後、綾瀬市域にも進出を図る。保延6年(1140)頃の事か?飯田・俣野・梶原・懐島(ふところじま)・大庭氏等々、領土領域を接しながら領地領民の確保・保全に心血を注ぎ時代の流れ時の権力に順応していかねばならなかった。この頃、都では大寺院・第荘園主等の横暴が目につき始める。幸い、渋谷庄は海老名氏を除けば四囲を同祖を仰ぐ氏族としての認識があったのかどうか?比較的平穏な経営が続いたと思われる。ただ、海老名氏とは領地(根恩馬郷(ねおまごう)―当時の海老名氏領)の件で、諍(いさか)いがあったようである。

 東国の武士達にも、朝廷や権力者の統治を受けると朝廷・御所の警護や大番勤務が課された。いつの時代もそうだが、この使役は地方の武士団にとっては大きな負担となった。しかし一方では都の情報・情勢を地方に知らしめる役割も果たした。また奥州・東国と都との物流も、都の情報流布に寄与した。

 永く朝廷に摂関家として専横を極めた藤原家が、その力を行使できなくなって院政が始まる。治歴4年(1068)、院政は40数年続くが、治天の君と呼ばれた白河上皇の権力維持に源平の武士達が登用されはじめてくる。武士達の台頭である。永い間、犬馬の労に耐えてきた武士達にも曙光(しょこう)が見えてきたのである…が、しかしいつの世も必ず反面がある。朝廷に於いて昇殿が許され、晴れがましくともそこには朝廷内の権力・勢力争いの陥窮が待ち受けていた。そして保元の乱(1156)・平治の乱(1159)の渦中へと飲み込まれていく。近江源氏佐々木秀義が平治の乱に敗れ、奥州藤原秀衝を頼り落ちのびていく…。その途次、渋谷の庄の近隣地域に於いて、渋谷氏の総帥重国と邂逅する。いや、重国の待受だった。

 【文・前田幸生】
 

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