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綾瀬版 公開:2014年10月10日 エリアトップへ

〈第4回〉渋谷氏ゆかりのコースを訪ねる(4) あやせの歴史を訪ねて 綾瀬市史跡ガイドボランティアの会

公開:2014年10月10日

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 幾度(いくたび)源氏再興の夢を見たことか!!頼朝、伊豆韮山蛭ヶ小島の寓居(ぐうきょ)で呻吟の幾星霜、既に齢34歳を数えていた。都より以仁王・源頼政等の横死の報に地団太踏む思いで機会を窺った事だろう。時に頼朝、治承4年(1180)8月、三島大社の祭礼に山木兼隆の監視が緩んでいた好機を逃さず、兼隆の首を挙げ一路石橋山を目指す。幸運な旗上げだったが、伊豆韮山から石橋山への進出、重畳たる山々の踏破は言語に絶する行軍だった事だろう。迫りくる追手の影、決起した意気の高さ怯まず行軍の歩を速めた事だろう。しかしながら、天は志のある者達へ微笑むとは限らない。周到な打合せがあったのか…?時季(とき)はあたかも8月23日、日本列島はこの頃も…?定期便の洗礼があった事だろう。石橋山へと頼朝の下(もと)へと急ぐ三浦・中村一族、大庭景義等の行手を大河の氾濫が阻む。

 頼朝の旗本を固めるのは北条時政一族、伊豆韮山周辺の土豪達、そして土肥実平一党、佐々木氏、その他3百余の兵。頼朝討伐軍は大庭影親を主力として梶原、渋谷一族も討伐軍へ合流し、俣野・長尾氏等その数およそ3千余の兵。先端が開かれるも鎧袖一触、正にこの言葉で形容出来る戦場となったのでは…!?衆寡敵せず…頼朝勢戦場離脱を余儀なくされ、再起を期し四散を計る。幸い土肥実平の機転で危地を脱し、実平の勢力範囲である湯河原の奥地へと逃れる事が出来た。この乱戦の中、頼朝の旗本にも戦死者が出る。岡崎義実の息子・佐奈田余一義忠、長尾定景に討たる…この事、後史に残る。また、佐々木兄弟も奮戦した事だろう。ましてや渋谷重国一党、葛藤を抱きながら苦衷の戦場だった事だろう。

 一方、大庭・梶原等の探索の手を逃れ、奥湯河原の椙山まで辿り着く。ここに昔から地の人しか知らない洞窟があった。世に言う鵐(しとど)の岩屋である。頼朝主従ここに潜み、大庭・梶原等周辺を探索するも梶原景時の機転に依り、頼朝主従辛くも難を逃れる。この頃、渋谷勢探索に加わっていたのだろうか…!?また、佐々木兄弟敗残の身で伊豆箱根の山中を彷徨、辛うじて渋谷の庄に辿り着く。石橋山の戦いで大敗を喫し奥湯河原に潜伏し、頼朝探索の手が緩んだ頃を見計らって真鶴半島の岩海岸より海路安房・上総へと脱していく。

【文・前田幸生】
 

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