市立横須賀高校(現・横須賀総合)に投手として誘いを受け入学。堀内恒夫(元読売巨人軍)の足を高々と上げるフォームを参考にした自己流のスタイルで、多彩な変化球を投げ分ける才能が評価された。「巨人の大ファンで、憧れの選手だった。彼のように剛速球を投げたいと思った」。
だが入学直後、順風満帆に思えた野球人生は暗転する。練習で本塁にスライディングした際、足を骨折。緊急入院を強いられ、もどかしい日々を送った。
1年生の冬に傷が癒えると、遅れを取り戻すべく走り込みを始めた。一日何十キロでも、走れる分だけ走った。富士製鉄(現・新日本製鉄)で社会人選手だった父の教えだ。「投手はとにかく走れ。次第に身体が動くようになる」。
父の言葉通り、けが前より球威が増し、エースナンバーを背負った2年生の秋、3年の春は県16強入りに貢献した。
最後の夏は、3回戦で逗子開成高校に惜敗した。最後はサヨナラスクイズを決められ「本当にあっけなく終わった。(同世代の)原辰徳がいた東海大相模と戦う前に負けてしまった」。約50年経った今でも悔しがる。勝負の神様は時に残酷だ。だが「人生で大事なことは、全て野球が教えてくれた」と胸を張る。野球を通じて社交的になれた。
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大学卒業後に就職した関東化成工業(株)では、掃除担当から社長にまで上り詰めた。不屈の心は、己を徹底的に律した高校時代の経験が下支えになっている。部下を仲間として接し、社長室のドアは常に開け放している。チームスポーツである野球から学んだことだ。
現在も4つの軟式チームで活躍する大ベテラン。「とにかく忍耐強く。結果が出なくても、やり切れば人生は変わる」と後輩球児にエールを送る。
![]() 愛用の名刺入れを手に
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