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横須賀・三浦 コラム

公開日:2025.12.19

三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第25回 文・写真 藤野浩章

「そんなには待てぬ。一年でやれぬか」

     ◇

 三浦半島全体を巻き込んだペリーの来訪はひとまず収まったが、艦隊の退去と同時に多くの課題が残された。何より、国書への返答を求めて翌年にペリーが再来航することが確実だった。幕府は、国防のさらなる強化を迫られたのだ。

 その中で、以前から奉行所では新たな軍艦の建造を何度も上申していた。というのも、実はペリー来航の前に、火災により蒼隼(そうしゅん)丸をはじめ所有する船がほぼ全滅していたのだ。まさに追い詰められた状態だったが、財政難の中でついに建造が認可される。当時の国家予算の0・2%、今に換算すれば2千5百億円くらいのイメージか。これで2艘の洋式船と2艘の御備(おそなえ)船、格納庫を建造するというのだ。

 本書では勘定奉行・川(かわ)路(じ)聖謨(としあきら)と伊豆などの代官で西洋流兵学者としても高名な江川英龍(ひでたつ)から、浦賀・東福寺で中島父子が直接指示されるという劇的な場面。冒頭はその時の川路のセリフだ。

 大砲10挺(ちょう)を備えた長さ18間(けん)(32m)の洋式軍艦を1年以内に造る----望んだ通りとは言え、奉行所には相当なプレッシャーがかかった大事業。これは同時に家康以来の"祖法"である大船(おおぶね)建造の解禁であり、幕府にとっても命運を賭けた事だった。

 一方、江川は江戸湾奥に台場を急ピッチで建造。当初11基を計画したが、最終的に6基が完成した。「品川御台場」である。彼はこの頃、鉄砲を鋳造するための幕府直営反射炉の建造にも着手。これが「韮山(にらやま)反射炉」だ。

 まさに本領発揮の時。三郎助の人生がここから大きく変わっていく。

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