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横須賀・三浦 社会

公開日:2025.08.01

「戦死だけが悲惨じゃない」
浦賀引揚船 コレラの悲劇語り継ぐ

  • 浦賀の引揚船第1便になった「氷川丸」の資料写真に目をやる安齊さん

 「祖国の土を踏める」--。一体、どれほどの希望だっただろうか。終戦を告げる玉音放送から数カ月。遠い異国の戦地から故郷への帰還を夢見て船に乗った人々を待っていたのは、安堵だけではなかった。コレラの蔓延により、上陸を阻まれた引揚者たちの悲劇が、浦賀の地であった。

* * * * *

 当時、在外日本人生存者数は軍人や一般人を含めて約660万人。これ以外にも相当数の生死不明者がいたとされる。引揚指定港となった浦賀では、中部太平洋や南方諸地域、中国大陸などから56万余人を受け入れ、全国では4番目、太平洋岸では最大だった。

 しかし46年、中国広東・海防方面からの引き揚げが開始されると、多数のコレラ患者が発生。長瀬にあった「旧海軍対潜学校」に検疫所が設けられ、検疫が済むまでは上陸の許可が下りず、多くの船が海上で停泊。感染者は検疫所や医療機関に収容されたが、分かっているだけでも398人、正確な統計資料はないが、数千人が命を落としたとする見方もある。

風化防ぐ資料館を

 「悲惨なのは戦死することだけではなかったことを知ってほしい。帰還には想像に及ばないほどの苦難があった。これを伝えていかなければ」。浦賀の引揚船の歴史を伝承する市民グループ「中島三郎助と遊ぶ会」の安齊孝夫さん(72)はそう話す。

 同会は1993年、幕末期の浦賀奉行所与力、中島三郎助を顕彰する団体として設立した。引揚船の歴史にも触れる機会があり、語り継ぐ活動を開始。これまで30回ほどパネル展を開いたり、地域の小学生に歴史を教えたりと、後世に伝えるべく取り組んできた。

 しかし、長年の活動で会員の高齢化は顕著に。保有する資料や写真なども劣化が進む。「以前まで、引揚船の歴史を語る団体は市内にもあったが、いまはウチだけじゃないかな。展示も今年が最後かもしれない」。会の存続、そして伝承が危ぶまれている現状に不安が口をつく。

 浦賀と同様に指定引揚港だった京都府舞鶴市には常設の記念館がある。「関東では引揚の歴史を語る場がない。このままでは史実を残していく機会が失われる」と窮状を訴える。

 このような事態を受け以前発行した資料冊子を増刷し全国の図書館に配布する活動に着手している。それとともに「いずれは、浦賀に常設の資料館を確保できれば」と願いを込める。

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