横須賀・三浦 コラム
公開日:2026.01.09
三郎助を追う 〜もうひとりのラストサムライ〜
第27回 文・写真 藤野浩章
嘉永7(1854)年が明けた。浦賀の町では例年通り多くの凧が舞い、羽根つきや獅子舞いが行われていた。そして「三河万歳(まんざい)が賑々(にぎにぎ)しく辻を縫って笑いを振りまい」ていたと本書にはある。「太夫(たゆう)と才蔵(さいぞう)がおめでたい歌や台詞を掛け合いながら舞い、新年の訪れを祝福」するもので、現在は国の重要無形文化財。徳川家から特に庇護(ひご)を受け、江戸末期には下火になりつつあったが、重要地の浦賀では変わらず盛んだったのだろう。
正月、三郎助は町人たちの句会に招かれることが多かった。俳諧(はいかい)などの文化が盛んだった浦賀において彼は「木鶏(もっけい)」と号し、俳人としても活躍していた。本来ならば創作に没頭したかったろうが、この年ばかりは人々の関心が「米艦再来と幕府の対応策」に集中。きっと、質問攻めだったろう。
そんな中、ついに1月11日、各地から異国船発見の報が相次ぐ中、小柴沖に1隻が錨(いかり)を下ろす。サザンプトン号である。16日にはあっという間に7隻となり、まるで江戸に向けてのスタートラインをつくるように一列に並んだ。予定より半年も早いペリーの再来航だった。艦隊は後にさらに増え、蒸気艦3隻、帆船軍艦3隻、帆走輸送船3隻に。大砲は全部で80を超え、乗組員は合計千七百名以上。当時世界最大級の艦隊が、江戸の喉元に集結したのだった。
完全に意表を突かれる形となった幕府に、対抗する力はなかった。鳳凰丸は進水したばかり、台場も完成前。江戸湾は丸腰と言える状態だったのだ。それでも全国の大名に命じ最終的に約47万人を動員して江戸湾を固めたが、一戦を交えた時に江戸が火の海になることは明白だった。
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