三浦版 掲載号:2012年11月30日号
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三浦の散歩道 〈第30回〉 みうら観光ボランティアガイド協会

県道より眺望する来福寺
県道より眺望する来福寺

 上の県道は、三浦海岸駅交番の横から緩やかな坂を登ったところに「池代」の信号があります。この緩やかな坂を「東山の坂」と言うのだそうです。信号の先はカーブになっています。200メートル程、進んだところに石柱があり、丸に三つ引の家紋と「来福寺」入口の表示があります。下り坂を行きますと、広々としたところに出ます。正面に物凄く大きな建物が見えます。「来福寺」の大伽藍です。作家の永井路子さんが、『相模のもののふたち』という作品の中で、次のように書いています。「まず、その大きな草葺屋根に驚かされた。間口九間、奥行九間半という大きさは、三浦半島第一ではあるまいか」とあります。量感を持った大屋根は現在も変わりません。道路に面して山門があり、両脇がゆったりとした空間と石垣が生け垣風に作られています。山門のある寺は市内では、三崎1丁目の本瑞寺、白石町の真福寺、松輪の福泉寺、毘沙門の慈雲寺の四寺だけのようです。本堂の屋根は入母屋造りで、銅版で葺かれた屋根はやわらかな曲線で、瓦葺にはない趣をみせています。三浦家の家紋のある大棟は平トタンを30枚も使っているそうで、堂々とした雰囲気を持った建物です。本尊に向かって、外から参拝する向拝(ごはい)の個所は広く、柱が四本もあり、どこの寺でも、普通は2本柱です。上の彫刻もすばらしく、龍や象鼻、獅子など見事です。こんなにも立派なお寺は何時、誰が建てたのだろうと、寺の縁起の書かれた案内板などによりますと、山号は、鹿穴山(しゃあなさん)、願生院と言い、浄土真宗東本願寺末で、本尊は阿弥陀如来です。古は天台宗で、鎌倉の大町にあって、後に本和田村に移って「和田山」と号したようです。建永元年(1206)に三浦大介の孫にあたる佐原七郎左衛門政連の子、六郎政村が出家して、法名を祐憲と号し、鎌倉に万昌院来福寺と称し、和田義盛の菩提寺として建てたのでした。その後、元和年間(1615〜1623)に浄土真宗に改宗したとのことで、和田に移ってから再度の台風で大きな被害を受け、現在の地に移ったのでした。寺宝の一つに和田義盛像があります。室町時代の作と言われ像の高さが42センチで、寄木造り、玉眼入りです。その様子は豪気な雰囲気の中にもやさしさもあるお顔立ちで、刀を差し右手に笏(しゃく)を持つ束帯姿です。三浦半島随一の名刹を後にして、再び、池代の信号の所に戻ってきました。先き程、登った「東山の坂」を駅の方へ下って180メートルも行きますと、右側に「上宮田小学校」の表示と矢印がありました。急な坂を下って行きますと、右手に茶色の大きな建物があります。住宅ではありません。よく見ますと、「三浦建設業組合」が持つ、「三浦建築高等職業訓練所」とあります。かつて、神奈川県知事を勤められた長洲氏が「職人を大切にしない国は亡びる」と語ったことを思い出しながら、素敵な建築屋さんを沢山つくっているのだなぁと思いながら坂を下って、学校の正門前を通り、左手に団地を控えた「上宮田団地公園」の上の道を行きますと、山の下に柿の実を沢山つけた木々がありました。道の脇に、1袋200円で柿を売っています。そう言えば、この近くの地名が「柿ヶ作」であったことを思い出しました。

つづく
 

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