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三浦 教育

公開日:2022.11.18

三崎小学校
市内教育の"礎"築いた地
誕生から現代までプレイバック

  • 【1】三崎小学校の校舎(明治の頃)【2】運動会(大正9年)【3】関東大震災で崩壊した校舎【4】新築した校舎の落成式(昭和6年)【5】城ヶ島分校=三浦市提供

 明治・大正・昭和・平成そして令和――。5つの時代を駆け抜け、三浦市立三崎小学校(三崎1の20の32/児童数113人)が今年創立150周年を迎えた。日本の近代化が進む真っ只中に誕生した同校。これまでに2万7千人を超える卒業生を輩出してきた。今号では、学校関係者や地域住民による過去の記憶と古い資料を照らし合わせ、写真とともに歴史の変遷を振り返った。

 海を間近に感じられる三崎小。その原点は、1871(明治4)年に県庁から三崎町に出された郷学校のお触れ書に端を発する。郷学校とは、武士の子弟を教育する藩学校に対し、庶民の子弟を教育する学校。翌年5月には徳川幕府の御番所、いわゆる出入りの船を調べる役所の建物(日の出)を教室に開校した。国内で最も古い学校の一つとして、市内教育のために蒔かれた種子が芽吹いた瞬間だった。

 当時の入学料は米一升、毎月の授業料は米2合、盆と年末の礼として米5合を納める決まりがあった。全国規模の近代教育法令「学制」が公布されたのは同年8月で、国の教育規則が確立。同校は翌年に東岬学舎、1878(明治11)年3月には東岬学校と名を改めた。1881(明治14)年には城ヶ島学校を新築。その後も西岬学校と合併して公立三崎学校、六合学校と合併して宝蔵学校、尋常高等三崎小学校と形を変えていった。

現在地に2階建て

 田舎の学校は平屋と決まっていた時代。東京・日本橋の坂本小学校を新築する際に、2階建ての旧校舎を三崎に移築する話が持ち上がった。解体した材料は瓦1枚残らず船に積んで搬送。地元住民が寄付しただけあって、空高く建てられていく工事の過程は町の評判になり、見物客が後を絶たなかった。港の見える丘、つまり現在地に1908(明治41)年11月、瀟洒(しょうしゃ)な校舎が新たな息吹をもたらした。

震災・戦争乗り越えて

 1923(大正12)年9月1日、関東大震災が町を襲った。学校は2学期の始業式だけで、児童はすでに帰宅しており、教員だけで恐怖に震えた。幸い1人も死傷者は出なかったものの、平屋の教室はつぶれ、2階建ての校舎は骨組みだけになった。三崎町会は1930(昭和5)年7月、本校と城ヶ島分教場の復旧工事に着手。翌年10月に落成式が行われた。

 1945(昭和20)年に入ると、戦火は激化の一途を辿り、B29の本土爆撃が東京・横浜を焼け野原と化した。燃えさかる炎は三崎からも眺められた。苦境を乗り越え、1958(昭和33)年にようやく三崎小学校の名に。1970(昭和45)年には低学年が通っていた城ヶ島分校が廃校。1979(昭和54)年には学校給食が導入された。

歴史・文化故郷の風景

 時が立ち、今年5月15日には「開校祭」が開かれ、在校生を含む約200人が集結。獅子舞や道化を踊り、祝い神輿を担いで校庭を練り歩いた。

 漁業・農業・観光の町で地に足のついた魅力と歴史の積み重ねから香り立つ文化を感じる三崎小。心に刻まれた故郷の風景がそこに存在する。

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