戻る

鎌倉 トップニュース社会

公開日:2016.03.11

募る郷愁と帰れぬ現実
浪江町出身・松尾さんに聞く

  • 復興へ願いを込め「お地蔵様」を制作している

 東日本大震災発生から5年。鎌倉市内では3月9日現在、131人の被災者が避難生活を送っている。福島県浪江町で被災し笛田に住む松尾弘美さん(71)は「発生直後と今とでは、私たちが抱える辛さ、悲しさの中身が変化してきている」と振り返る。

 震災が発生した時、松尾さんは自宅にいた。防災無線で津波警報を聞き、夫の諭さんと車で高台の小学校へ避難。翌朝、自宅へ戻ろうとしたところで初めて、町職員から原発事故の発生を知らされた。

 放射能から逃れるように二本松市へ移動。持病のある諭さんの体調が悪化し「限界を感じていた」ところ、鎌倉に住む娘から自宅へ来るよう提案を受けた。「道中、都内に住む娘の夫の両親の家に一泊したのですが、温かいご飯とお風呂がこんなにも幸せなものなのか、と胸にしみました」と振り返る。

 鎌倉に着いたのは震災から10日後。常盤で暮らす娘のもとに身を寄せた後、笛田のアパートに移り住んだ。

被災者の状況に変化

 鎌倉に住むようになった後、心の支えとなったのが、同じ境遇の人々とのふれあいだった。市内では支援団体によって定期的に交流会が開催され、互いに励ましあうことができたという。

 震災から2年が経過したころ、被災者が主体となって「東北支援鎌倉プロジェクト」が発足。松尾さんも参加し、自ら交流会を催すこともあった。

 しかし、人々の足は次第に遠のいていった。当初は月2回程度開催していた交流会は1回となり、参加者も少なくなっている。

 市によれば、一時は170人以上いた避難者も、131人にまで減少している。現在の状況について松尾さんは「避難先で新居を構えた人などはもう自分を『避難者』とは思っていない。一方で進退を決められずに留まっている人もまだいて、それぞれの状況と気持ちがばらばらになってしまった。仕方がないことですが、心を一つに、という雰囲気は遠くなりました」と話す。

 今は学校帰りの孫が立ち寄り、毎日賑やかに過ごしているが「孫が成長し、あまり顔を出さなくなったら、と考えると寂しくなります。少しでも友達のいる浪江に帰った方がいいのでは、と気持ちが揺らいでいる」と静かに語る。

 その一方で「一時帰宅する度に、朽ちていく家と下がらない放射線量に街が元通りにならない現実を突きつけられる」と複雑な胸中を明かす。

 古布での「お地蔵様の人形」制作を趣味としている松尾さんは、震災後に市民団体「未来・連福プロジェクト」が福島県の住民を鎌倉に招いた際に、参加者にお土産として手渡している。「今は復興への願いを一針一針に込めて、お地蔵様を作っています。鎌倉に訪れる東北の人の癒しに少しでもなれば」と話した。

ピックアップ

すべて見る

意見広告・議会報告

すべて見る

鎌倉 トップニュースの新着記事

鎌倉 トップニュースの記事を検索

コラム

コラム一覧

求人特集

  • LINE
  • X
  • Facebook
  • youtube
  • RSS