第19回「菱沼」 茅ヶ崎の轍(わだち) 協力/茅ヶ崎市文化資料館
菱沼という地名は、比較的早く歴史に登場します。
鎌倉時代末期の文献に「相模国大庭御厨内菱沼郷」とあります。16世紀初頭には小田原北条氏の支配するところとなりました。
江戸時代、幕府は年貢を課す基準として村高を決めるとともに、村の境界を定めて範囲を決めました。ところが菱沼村は、『新編相模国風土記稿』に「この地は小和田村と地形が入り交じっているため、周囲の隣接村との境界、地域などは小和田村と一緒にして記載する」とあり、両村は複雑に入り組んでいました。
また、『風土記稿』に「東海道が村の中ほどを貫く」とあります。現在の国道1号にあるバス停「菱沼」付近に江戸時代には牡丹餅茶屋と呼ばれる立場(休憩所)がありました。そこは栗牡丹餅、湯豆腐、そば、あめ等が名物で坂を登りつめた高台で眺めが良いところだったようです。ここには紀伊藩(和歌山県)の徳川家が江戸と国元を結ぶために設けた七里継立場(飛脚継立の役所)がありました。松林にある長福寺に「七里様の墓」と呼ばれていた役人たちの墓石が継立場跡近くにあったのですが、昭和10年代初頭に国道を広げる工事のため移されたと言われています。
【参考文献/茅ヶ崎市史1】
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