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平塚・大磯・二宮・中井 文化

公開日:2018.05.31

城跡や海軍砲台跡LED光らせ紹介
今はなき「城所山」を再現
浄心寺にジオラマを奉納

  • 力作のジオラマと共に大庭さん(左)と栃堀住職

 「城所山があったということを地域のみんなに知ってほしい」と、城所在住の大庭敏夫さん(70)が自身の記憶をもとにしたジオラマを制作した。ジオラマは浄心寺(城所)に納められており、今はなき山の風景に、昔を懐かしむ檀家もいるという。



 地域で「城所山」と呼ばれていた台地は、1964年に開通した東海道新幹線建設に使う採土工事により切り崩された。大住中学校の北側にある浄心寺の裏側に位置し、標高30mほどだったという。現在は西側の一部が残っており、斜面には墓地、頂上にはトウモロコシ畑などが広がっている。



 大庭さんは電機メーカーの技術者だったことから、手先の器用さを生かし、ジオラマづくりを開始。石膏や紙粘土の替わりに、発砲スチロールを使用することで、細かい地形を再現することに成功した。ポスターカラーで着色されたジオラマにはLED電球が仕込まれ、「道祖神」や「馬頭観音」、「醤油屋」などの位置がボタンで光るようになっている。



 平塚と伊勢原の市境に位置し、大山から相模湾を一望できる高台は戦略的利用価値が高かったことから、時代の変遷と共にさまざまな用途で利用された。



 鎌倉時代には土着武士の城所氏の館があり、山城として一帯を見下ろしていた。山のふもとの三面大荒神社には、源頼朝の妻・北条政子が、夜泣きがひどい子供を連れて祈願したところ泣き止んだという逸話もあり、地域住民からは「泣き荒神」という名称で親しまれている。



 戦時中の1943年には国に買収され、海軍の高射砲陣地「城所砲台」が建設された。山の中腹には兵舎や防空壕があり、12人ほどの小隊が駐屯していたと考えられる。大庭さんは取り壊された兵舎の基礎部分に雨水が溜まると、メダカやフナを放して遊んだという。



 栃堀真英住職(69)は「僕らが城所山で遊んだ最後の世代。子供たちは山があったことすら知らないのでは」と話す。大庭さんは「城所山は地域の歴史を象徴するもの。同世代にはジオラマをきっかけに思い出を語ってもらい、次の世代につなげていきたい」と力作に目を細めていた。

 

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