江戸から昭和時代を生き抜き、市内袖ケ浜に別荘を構えた資産家・高田たみの存在を広く知ってもらおうと1日、「高田たみ別荘跡建碑の会」が袖ケ浜北側緑地に石碑を建設した。今年は高田たみが土地取得してから100年という節目の年で、浜岳地区の郷土史を調査している栗原健成さんが発起人となり建設に至った。
平塚空襲後には学校として活用
高田たみは1853年、東京に生まれた。夫の高田慎蔵は海軍の武器や機械の輸入を行う「高田商会」を営んでおり、大磯にも別荘を所有していた。
袖ケ浜に別荘を取得したのは1919年。別荘建設時には66歳と高齢だったたみが、袖ケ浜を選んだのは、近辺に杏雲堂病院があったことが理由として考えられる。子供や孫たちと共にプライベートな時間を過ごしたといわれている。
21年に慎蔵が亡くなると、関東大震災で社屋の倒壊や商品の焼失に遭い、会社は25年に経営破綻した。たみが78歳で死去した後、平塚の別荘は北辰電機製作所に売却され、社宅として活用された。
戦時中は奇跡的に平塚空襲を免れ、焼失した第二国民学校(現・港小学校)の代わりに校舎として使用されたこともある。
高田たみの功績として、明治後半〜大正の囲碁界を支えたという点も大きい。囲碁の家元の本因坊家は、これまで庇護者だった徳川幕府が倒れたことで、不安定な生活を送っていた。囲碁愛好家でもあったたみは本因坊秀栄など名のある棋士たちに毎月40円という高額な月謝を払って教えを乞い、パトロンとして業界を支えた。たみの存在がなければ、その後平塚で栄える木谷道場の存在もなかったかもしれない。
袖ケ浜自治会会長の小原公一さんは、「袖ケ浜は空気がきれいで結核の療養所にもなっているほど住み良いまち。碑を建てたことで地域の歴史について、伝えられればうれしい。この碑を大切にしていきたい」と目を細めた。
当時、家父長制が当たり前の中で不動産登記名が「高田たみ」だったことを不思議に思い調査を始めたという栗原さん。地域の祭りの際にかき氷をごちそうになった、平塚海水浴場に寄付してくれたなどの証言も残っており「地域住民との関わりも見えてきた。ゆかりの人として知ってほしい」と話していた。
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