平塚の七夕のはじまりは、平塚空襲(1945年7月16日―17日)で焼け野原となった市街地を盛り上げようと商店主らが企画した「復興まつり」だった。1951年に開催してから一度も途切れることなく続いてきた七夕まつりが、今年初の中止となる中、湘南ひらつか七夕まつりメーン会場の湘南スターモール商店街に店を構え、戦後復興のさなかの平塚を生きてきた(有)鍋屋商店の升水一義さん(79)に、まつりへの思いを聞いた。
江戸時代から続く升水家
升水家は江戸時代から続く名主で、一義さんは13代目になる。家業の生活雑貨店「なべや」は1873年創業。もともとは竹製品などを扱う荒物・雑貨店として始まった。
いち早く戦後復興を果たしたことで、平塚駅前の商店街にとって、昭和30年代は伊豆半島〜三浦半島までが商圏だった。「買い物と言えば平塚の商店街、という風になったんです」とにぎわいを思い出す。
復興のはじまり
終戦時、升水さんは5歳だった。軍需工場で働いていた父は戦後まもなく身体を壊して亡くなり、家業は母が切り盛りすることになった。
1950年の「復興まつり」、翌年の「七夕まつり」初開催当時は、男手がないことなどから、積極的にまつりに関わることはできなかったが、手作りの小さな飾りを店先に飾っていたという。
現在のような雨風をしのげる立派なアーケードはなく、飾りも和紙素材がほとんどで、まつり期間中、雨が降ると大人たちは急いで飾りを軒下にさげていた。「勉強しているとまつりのにぎやかな音が聞こえてきて、うるさいなと思ったこともあるけれど、子ども心に綺麗だなぁと眺めていた」と当時を振り返る。
世相示すテーマを
升水さんが店を継いだ頃から、大型の飾りを制作するようになった。
竹かごを土台に和紙で作った花を飾り付け、くす玉や吹き流しを組み合わせる。制作は従業員総出で取り組み、その年の明るいニュースを題材にするのが恒例。手作りらしい温かみある作風で、皇室ご成婚や五輪など、世代を問わず伝わる話題をピックアップする。「テーマを決めるのが一番大変」と頭を悩ませるだけあり、時事ネタの鮮度は抜群。2001年には『ドジャース野茂大リーグ球宴出場へ』と銘打った飾りの写真が、選手の活躍を期待する記事とともにスポーツ新聞の1面を飾った。
空埋め尽くすまつりの主役
仕掛け飾りの全盛期だったと思い返すのは、昭和50年代のまつりの光景だ。
トキワヤや片野屋、滝口カバンなど、初開催当初から七夕を盛り上げてきた商店が中心となり、競い合うように掲出した。「アーケードの始まりの地点には梅屋さんのアーチがあって、今年はどんなのだろうと毎回楽しみだった」と升水さん。最盛期には空も見えないほどで、真っすぐ歩くのも大変だった。
まつりの中止をさみしく思いつつも、「やっぱり平塚といえば七夕だよね、と気持ちをひとつにするきっかけとして大切だと思う」と前を向く。「ピンチをチャンスに、次のテーマを考えなくちゃね」と、来年の七夕開催を今から心待ちにしている。
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