水資源として平塚に豊かな稲作文化をもたらした一方、たび重なる決壊により「暴れ川」の異名を持つ金目川。県は都市河川重点整備計画に基づき、鈴川との合流地点の護岸整備や、昨年の台風19号で浸水被害が発生した長持排水路の大規模な土砂撤去等の事業に取り組んでおり、今でも「暴れ川」の整備は続いている。
稲作の盛んな平塚にとって、金目川はまさに生活の「要」だ。整備の歴史は、徳川家康の時代にまでさかのぼる。
家康が金目川の治水に着手するきっかけは、文禄4年、鷹狩りの度に訪れていた清雲寺(豊田本郷)が洪水被害にあったことだ。不憫に思った家康は、その翌年の中原御殿造営とセットで金目川の堤防づくりに取り組んだ。「北金目入口バス停」付近の「大堤」は、家康の治水にちなんで「御所様堤」とも呼ばれている。
幕府から村負担へ頭悩ます堤防修理
貞享元年には、金目川の水を取水する村から成る「二十八ケ村組合」が結成され、幕府から資金を得て堤防の維持修復を行うようになる。しかし、徳川吉宗の享保の改革で公共事業費が大幅にカットされたことにより、堤防の修復については各村々の負担となってしまう。
実害の大きかった北金目村は、「もともとは家康が築いた堤である」と、公共事業として堤防の修復をしてもらえるよう、領主を通じて事あるごとに幕府に訴えた。領主に提出したと見られる文書等の資料が残っており金目川の治水に頭を悩ませた歴史が伺える。
市博物館学芸員の早田旅人さんは「当時、金目川の源流がある春嶽山(秦野市)は肥料や馬の餌とするための草を育てており樹木がなく、今よりも保水能力が乏しかったと考えられる。金目川が10年に1度決壊するといわれるほどだったのはそうした理由では」と分析する。
平塚土木事務所の中川徹さんは「土砂の堆積除去など、河川整備に終わりはありません。今も家康の治水の続きとして、安全な暮らしのために取り組んでいきます」と話していた。
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